魔王の厄日と、最初の一歩
金曜の朝。
魔王城の執務室は、重い沈黙に満ちていた。
我が支配の要である魔道具(会社のパソコン)は沈黙を保ったまま動かず、そして追い打ちをかけるように、吹雪の腰に激痛が走った。
「ふーっ…。こんな時こそ、一つずつだ」
吹雪は自分に言い聞かせた。
今日の目標は、何かを成し遂げることではない。
ただ、この一日を無事に過ごすこと。
そして、できれば休憩時間に、先日契約した新しい魔法の石板の登録を済ませること。
彼は、その新しい石板を手に取った。
しかし、電源を入れた途端、彼の意図せぬアプリが次々と召喚され始める。
古い魂でログインすれば、忘れていたはずの呪い(不要なデータ)まで引き継がれてしまった。
「面倒くさい石板だな…。まずはいらないアプリの消去からか」
だが、その前に、この石板の目的そのものが定まっていなかったことに気づく。
最小限の魔力収集(ポイ活)に使うか、叡智の探求(勉強)に使うか。
Wi-Fi環境でしか使わないと決めてはいたが、その先が白紙だったのだ。
「漫画は読みやすいな…。だが、それだけか…」
メインの魔道具にするには戸惑いがある。
かといって、ただ鞄に入れておくだけでは意味がない。
以前の壊れた石板のように、ポイ活専用機にするのだろうか。
考えがまとまらない。
その上、
「この石板は、テザリングの術を使うには、別途申し込みが必要だ」
などという、予期せぬ制約まで見つかる始末だった。
その時、腰の痛みが再び彼を襲った。
動けないほどの、鈍く、重い痛み。
「あかん…習慣が、崩れてくる…」
吹雪は、執務室の長椅子に崩れるように身を預けた。
そこへ、竜の健太が静かに入ってきた。
「ひどい顔をしているな、吹雪」
「健太先輩…。腰が…。昨日、人間界の名医の所へ行ったのですが、我の腰痛は、普通の人間が罹るものとは意味が違う、と言われました」
吹雪は、力なく語り始めた。
彼の背骨は、長年の玉座での生活のせいか、ぎゅっと固まっており、そこから来る痛みは常人の何倍もきついのだと。
その言葉は、吹雪の心の奥底に沈んでいた後悔を、容赦なく抉り出した。
「…この城を買うんじゃなかった。なんにも考えていない、ただの愚か者だ、我は」
自己嫌悪が、黒い霧のように心を覆っていく。
どんなに日々の小さな節約を重ねても、人生の大きな局面で失敗し、大金を失っていたら何の意味もない。
「食器を洗うだけの、些細な動作すら億劫だ。この痛みから解放されたと思っていたのに、また復活してしまった。再発防止のために続けてきたウォーキングも、腹筋はむしろ逆効果だったなどと、今さら知って…」
「そうか」
と健太は静かに言った。
「お前の身体は、常人とは違う。ならば、常人と同じ鍛錬法が合わぬのも道理だ。腹筋ではない。プランクとドローイン…いわば『竜の体幹術』だ。それを試すがいい」
健太の言葉は、具体的な次の一手を示してくれた。
しかし、心の霧はまだ晴れない。
「ですが先輩、どうしようもなくトラブルに見舞われる。普通に生きようとしているだけなのに…」
健太は、長椅子でうなだれる吹雪の隣に腰掛けた。
「吹雪よ。お前は今、城が動かぬ、身体が動かぬ、そして新しい石板の使い方も分からぬ、と三つの問題に同時に立ち向かおうとしている。だから混乱するのだ。お前が最初に言った通りではないか」
「…最初に、言った通り?」
「『こんな時こそ、一つずつ』。そう言っただろう」
その言葉に、吹雪はハッとした。
そうだ。全てを同時に解決しようとして、パニックに陥っていたのだ。
腰痛は、すぐには治らない。
城の魔道具も、修理には時間がかかる。
だが、手の中の新しい石板は、今、自分自身の力でどうにかなるかもしれない。
吹雪は、ゆっくりと身を起こした。
「…まずは、この石板に、新しい、清浄な魂(Googleアカウント)を吹き込むことから始めようと思います。ヤフーメールとかいう、古い魂はもう使わない」
それは、あまりにも小さな一歩だった。
だが、自己嫌悪と混乱の螺旋から抜け出すための、確かな一歩だった。
その様子を、部屋のドアの隙間から、アリアが心配そうに覗き込んでいた。
彼女は、吹雪と目が合うと、にこっと笑って、そっとドアを閉めた。
厄介な一日は、まだ始まったばかりだ。
腰は痛むし、仕事も滞っている。
だが、吹-雪の心には、ほんの少しだけ、次へ進むための道筋が見えていた。
まずは、この新しい石板と、きちんと向き合うことから。
魔王の静かな戦いは、まだ終わってはいなかった。




