魔王、交渉術と王の仮面
人とは弱いものだ。
いや、我が弱いのか。
あるいは、人という種族そのものが、本質的に弱いのかもしれない。
だからこそ、知識や経験、慣れといったものが、この社会で生きていく上での武器、いや必須の武具となるのだろう。
それらを持たぬ者は、金銭を払い、他者に代行してもらうしかない。
だが、それはその場しのぎに過ぎず、真の力は身につかない。
そしてこの世界は、まるで経済を回すのが正義と言わんばかりに、人々が自ら力をつけることを妨げ、金を使わせようとする。
「金を払わぬ者には、厳しい世界だ…」
魔王城の書斎で、吹雪は窓の外を眺めながら、静かに呟いた。
その厳しさとは、単なる不便さではない。
自分でやろうとすると、時に馬鹿にされ、けなされ、そして怒られる。
その正義の根源は、おそらく彼らの「家族を守るため」「プライドを守るため」という、ひどく個人的なものなのだろう。
「厄介なことになった」
吹雪は、傍らで古文書を読んでいた竜の健太に、重い口を開いた。
「以前、因縁のあった『二度と関わりたくない相手』と、再び交渉せねばならなくなりました。魔王軍の財政に関わる、最大30万もの節税が見込める重要案件で…」
それは、吹雪が今後、節税のような実務をしっかりやっていこうと決めた矢先の、あまりにも意地の悪い試練だった。
「ほう。相手はまた、お前を見下し、交渉を妨害してくるか」
「おそらく。彼らの振る舞いは、自らの既得権益という名の、小さな玉座を守るためなのでしょう。今回も、『自分の利益にならない』と判断し、つっかかってくるに違いありません」
吹雪は、怒りや仕返しといった感情が胸をよぎるのを感じたが、それを静かに押し殺した。
「それは、金持ちになるつもりの我がするべきことではない。彼の振る舞いは、いずれ他の誰かが裁くだろう。我はただ、我が道を進めるための策を講じるのみです」
吹雪は、健太に自ら考えた戦略を語った。
まず、周囲で情報を固め、次に、有力なギルド(他業者)を仲介役として巻き込む。
そして、相手と対峙する際は、決して感情的にならず、相手の機嫌を損ねないように、丁寧に、丁寧に会話を進める。
「そのための費用は、惜しみません。とっとと終わらせることが肝要です。もし、それでも駄目なら…その30万は、勉強代として諦めます」
貧乏人は、こうしてどんどん貧乏になっていくのだろうか。
幸い、今はまだ、その勉強代を払うだけの余力がある。これを教訓とせねばならない。
「いい教訓とは、何だとお考えです、健太先輩」
「正面からぶつかるだけが戦ではない、ということだ」
と健太は言った。
「時には流れを作り、他者を利用し、嵐が過ぎ去るのを待つのもまた、優れた戦術だ。そして、そのためには仮面が必要になる」
「仮面…」
「そうだ。真の強者や金持ちが丁寧なのは、心から優しいからではない。己の利益と平穏を守るためだ。それは優しさではなく、高度な統治術。お前も王として、一人の個人であると同時に、『王』という役割を演じる役者となれ。その仮面を自在に使いこなすのだ」
健太の言葉が、腑に落ちた。
人格を演じ、人柄の習慣を身につける。
それが、厄介な者たちをおだてて喜ばせ、さっと離れていくための処世術なのだ。
「我は、人より歩みが遅い。さらに、この性格だ。回り道ばかりしているかもしれん」
吹雪は、自嘲気味に言った。
一人きりの魔王城では、自らを鼓舞するのも自分しかいない。
やる気は、天候のように大きく左右される。
「速度を気にするな」
と健太は言う。
「竜の刻に比べれば、人の一生など瞬きに等しい。重要なのは、止まらぬこと、そして進むべき方向を見失わぬことだ」
吹雪の脳裏に、自身の理想の未来が浮かんだ。
楽しくて、いい家臣たちに囲まれて、変な奴らとは関わらずに、健康で元気に、死ぬまでこの領地を治め続ける。金はそのための道具であり、心の安寧のために蓄えるものだ。
その時、アリアが「ふぶきん!」
と書斎に駆け込んできた。
「見て!お花が咲いたの!」
彼女の手には、小さな鉢植えがあった。
その可憐な花を見ていると、先ほどまでの心のささくれが、少しだけ癒えていくのを感じた。
そうだ。我は、このアリアのような者たちが、穏やかに暮らせる世界を守るために、戦うのだ。
厄介な交渉も、複雑な社会も、その理想にたどり着くための一つの過程に過ぎない。
「きれいな花だな、アリア」
吹雪は、穏やかな声で言った。
その顔にはもう、迷いはなかった。
王の仮面をつけ、自分の道を、本当に少しずつ、しかし確かに進んでいく。
その覚悟が、静かに宿っていた。




