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今日の魔王は筆が進まない 〜人間界手続き奇譚〜

「くっ……! まさかこの俺が、『書類不備』ごときで退けられるとは……!」


朝一番、魔王を自称する男、吹雪は「ゼイムショ」とかいう人間界の関所で門前払いを食らい、忌々しげに舌打ちをした。


全能たる魔王の力をもってしても、この世界の理不尽なルール、「住宅ローン控除」とやらの前では無力だった。家という名の城を手に入れた対価として得られるはずの「所得税控除」という恩恵が、いまだ我が手にない。


「だから言っただろう、吹雪。全部持っていったつもりでも、一つや二つは忘れるもんだって」


隣を歩く先輩の健太が、呆れたようにため息をつく。


その巨躯と、時折覗く冷静で達観した瞳は、彼が悠久の時を生きるドラゴンであることを物語っていた。

もっとも、普段は建設会社で働く、頼れる現実主義者なのだが。


「案ずるな、吹雪よ。かの地の役人は『遡って五年間は手続きが可能』と申したではないか。焦りは禁物だ。魔王たるもの、もっと堂々としていろ」


「しかし健太! 我が威厳に関わる!人間界の決まり事は複雑怪奇すぎる!」


吹雪が喚く横で、幼馴染のアリアはふわふわと漂うように歩きながら、道端のマンホールの模様を熱心にのぞき込んでいた。その模様を見ながら


「ねえ吹雪くん、カイキってなあに? お月様のこと?」

と聞いてきた。


「月ではない! 怪しく奇妙と書いて怪奇だ! ……なぜ今空を見上げる!?」

「だって、皆既日食とか言うから……」

「それとは字が違う!」


全力でツッコミを入れる吹雪に、健太がやれやれといった表情を向ける。


「落ち着け、魔王。アリア、月でも日食でもない。手続きがやたら面倒くさいって意味だ、今は」


「へぇ、メンドウクサイはカイキなんだね。一つ賢くなった!」


吹雪は額に手を当て、天を仰いだ。

このやり取りだけで、MPを半分は持っていかれた気分だった。


アリアは満足げに頷き、再びマンホールの模様に目を落とした。


「見て吹雪、健太先輩! お魚さんの絵が描いてあるよ。かわいい」

「アリア、今はそれどころでは……!」


この不思議な幼馴染の能天気さには、いつも調子を狂わされる。

だが、彼女の存在がこの息苦しい人間界の空気を和ませているのも事実だった。


結局、足りない書類は「リフォームローンを組んだ銀行」という場所にあると聞き、一行はそちらへ向かった。

健太の的確なナビゲートのおかげで、そこで手続きはあっけなく完了した。


「ふむ、一つ駒を進めたな。だが本丸は『住宅ローンを組んだ銀行』の方だ。そちらがメインクエストだからな。早々に片付けねば」


電車に揺られながら、吹雪は最近読み終えたばかりの魔導書(人間界ではラノベと呼ばれている)を鞄にしまい、決意を新たにした。


「とりあえず、祝杯だ」


吹雪が一行を率いて向かったのは、黄金のアーチを掲げる「マクドナルド」という名の聖域だった。

彼は慣れた手つきでスマートフォンを操り、アンケートクーポンという呪文を詠唱する。


「見よ、我が魔王の知恵を! これにより、一杯分の対価で二杯の『コーヒー』という名の霊薬を召喚できるのだ!」

「わーい、吹雪くんすごい! 魔法使いみたい!」

アリアが無邪気に手を叩く。

「我は魔王なのだから当たり前なのだ。ワハハハッ」


「いや、ただのKODOクーポンだろ……」

健太が冷静にツッコミを入れるが、吹雪は満足げに胸を張った。


しかし、そのマクドは窓からの陽光が強く、まるで聖なる光が悪を滅するように、吹雪の肌をジリジリと焼いた。スマートフォンも充電の熱で悲鳴を上げている。


「むぅ……この場所は我々闇の眷属には不向きか。移動するぞ」


彼らが次にたどり着いたのは、吹雪が最近見つけたお気に入りの場所だった。

広々とした空間に、コンセント付きの席が並ぶ。

俗世の喧騒から切り離されたようなその場所は、創作活動にうってつけだった。


「やはりここが最高だな。あまり騒がしくなく、品のない人間も少ない。弁当の持ち込みも許可されている。マクドもある。完璧な布陣だ」


吹雪はノートパソコンを開き、自身のブログ、もとい武勇伝の執筆に取り掛かろうとした。

そう思いながら、吹雪はキーボードに指を置いた。

……しかし。


あれ? なんだか今日は、書く気が湧かない。

あれほど溢れ出していた言葉の泉が、今日は完全に枯渇している。


「どうした、吹雪。キーボードが進まないようだな」

健太が隣でコーヒーをすすりながら言う。


「う、うむ……。昨日の魔力の暴走の反動かもしれん……」


昨日は、職場という名の戦場で、なぜだか饒舌に語り続けてしまった。


まるで制御の効かない魔力が溢れ出すかのように言葉が止まらず、自分でも戸惑うほどだった。

あの時の自分は、もしかして魔王としてのオーラの片鱗を見せていたのかもしれない。


「ふーん?」


アリアは持参したお弁当箱を広げながら、きょとんとした顔で吹雪を見た。

「吹雪くん、お腹すいたんじゃない? ブログも小説も、腹が減っては戦はできぬ、だよ」


そのあまりにも純粋な真理に、吹雪は虚を突かれた。

魔王の威厳も、力の暴走も、人間界の煩雑な手続きも、今はどうでもいい。


「……そうだな」

吹雪はゆっくりとパソコンを閉じ、アリアが差し出す卵焼きに手を伸ばした。


まあ、そんな日もある。

魔王の日常も、存外ままならないものである。

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