暇を持て余した魔王と、僕らのリアルライフ・クエスト
「うがー! 書けん! まるで書けん!」
俺、吹雪は、ノートパソコンの前で頭を抱えていた。
昨日まではスラスラと指が動いていたはずの小説が、今日は一行たりとも進まない。
かつて、この俺が「魔王」として君臨していた時代、配下の魔物どもが命令通りに動かぬことなど一度もなかったというのに。
それに比べて、この脳内の言葉のなんと気まぐれなことか。
「あら、魔王様が世界征服より難解な壁にぶち当たっているご様子」
背後から聞こえてきたのは、コンビニの袋をぶら下げた健太の声だ。
こいつは俺が元魔王だという事実を知る数少ない人間の一人で、その上で平然とこんな軽口を叩ける稀有な存在でもある。
まあ、力をほとんど失った今の俺に、昔日の威光など欠片もないのかもしれないが。
「健太か……。貴様、この俺の苦悩が面白いか」
「面白いよ、大いに。かつて四天王を従え、世界を闇に染めようとしていた魔王様が、今や締切と登場人物の心情に頭を悩ませているんだからな」
「うっ……それは、その……次元が違うのだ、問題の」
言い訳がましい俺の言葉に、健太は肩をすくめて買ってきた缶コーヒーを俺の前に置いた。そこに、ひょっこりとアリアが顔を出す。
「ふぶきーん! また唸ってるー。魔王パワーでちゃちゃっと書いちゃえばいいじゃん!」
アリアは俺が魔王であることを、なんだかファンタジーゲームのキャラクター設定か何かのように捉えている節がある。
まあ、そのおかげで変に恐れられることもなく、ある意味助かっているのだが。
「アリアよ、魔王パワーとやらが万能だと思うな。それに、今の俺にはそのような大層な力は……」
言いかけた瞬間、チリッ、と指先に小さな静電気が走った。
いや、静電気にしては少し熱い。
慌てて手を振ると、健太が訝しげな目で俺の手元を見た。
「おい、今なんか光らなかったか?」
「き、気のせいだ! 乾燥しているからな、静電気だろう」
「ふーん……魔王の放電現象かな?」
アリアが目をキラキラさせている。まずい、この幼馴染は面白がって尾ひれをつけかねない。
「それよりだ、健太、アリア。俺はやはりこの空いた時間を有効活用する方法を考えねばならんと思うのだ」
「またその話か。小説のネタ探しで近所の公園でも魔改造するってのはどうなったんだ?」
「予算と法律の壁が高すぎた……。かつて俺が築いた魔城ならば、一日で更地にして新たなアトラクションを建設できたものを……」
「はいはい、昔の栄光は結構ですから。で、何か新しい案は浮かんだのか、元・魔王様」
健太の「元」に力が入っているのが気に食わんが、今は我慢だ。
「うむ。資格を取るという話があっただろう? どうせなら、この俺の知識と経験が活かせるものがいい。例えば……そうだな、『古代魔術検定』とか『異世界言語能力試験』とか……」
「そんなもんあるか! あったとしても、お前の職務経歴書にはどう書くんだよ。『元・魔王。古代魔術検定1級(自称)』とかか? 速攻で書類落ちだぞ」
「むぅ……現実とはかくも厳しいものか……」
アリアがパン、と手を叩いた。
「じゃあさ、ふぶきん! 小説に出てくる魔法とか、実際に使ってみたらいいんじゃない? そしたらリアリティが出るよ!」
「アリア、それは……」
俺が言い淀むと、健太が呆れたようにため息をついた。
「いい加減にしろよ、お前ら。吹雪、お前が本当に元魔王だろうがなんだろうが、今はただの小説家志望の男だ。地道に書くしかないんだよ。それに、下手に能力使って騒ぎにでもなったらどうする?」
「……分かっている。分かっているが、かつての力が完全に消え去ったわけではないのだ。時折、こう……うずくというか……」
俺がそう言って窓の外に目をやると、偶然にも街路樹の枝から落ちそうになっている猫の姿が目に入った。
ほとんど無意識だった。
指先が微かに動き、猫の体がふわりと数センチ浮き上がり、安全な場所に軟着陸する。
「……ん? 今、猫が変な動きしなかったか?」
健太が窓の外を見るが、猫はもう何事もなかったかのように毛繕いを始めている。
「さあ? 見間違いじゃないか?」
俺はしれっと答える。
アリアだけが、何かを察したように俺の顔をじっと見ていた。
「ま、とにかく! ふぶきんの小説、楽しみにしてるんだからね! 魔王様が書くほのぼの日常小説って、絶対面白いよ!」
アリアの屈託のない笑顔に、俺の心も少し軽くなる。
「……ああ。この俺が納得できるものを書き上げてみせよう。そして、いつか貴様らにも読ませてやる」
健太がニヤリと笑う。
「そりゃ楽しみだ。魔王が紡ぐ物語、か。売れたらサイン本よこせよな」
「ふん、売れる前から強気なことだ」
そうだ。俺は元魔王かもしれないが、今はただの吹雪だ。
このちっぽけな日常の中で、言葉を紡ぎ、物語を生み出す。
それはかつての世界征服とは全く違う種類の挑戦だが、悪くない。
むしろ、このどうしようもない日常こそが、俺の書くべき物語なのかもしれない。
「さて、とりあえずは腹ごしらえだ。アリア、バケットサンドの材料を買いに行くぞ。今日は特別に、俺の秘蔵のレシピで作ってやろう。もっとも、材料は近所のスーパーだがな」
「やったー! 魔王様のバケットサンド!」
「おい、俺の分もあるんだろうな?」
俺たちはいつものように、くだらない会話をしながら部屋を出た。
空はどこまでも青く、かつて俺が呼び寄せた暗雲など嘘のようだ。
まあ、たまにはこんな平和な日常も悪くない。
少なくとも、小説のネタには困らなさそうだ。




