飛行少女
空に憧れはない。ただ遠くへ行きたかった。
ここじゃないどこか。
高く聳える山々が、私の世界を閉じ込める白い壁に見える。その向こう側を知らないまま、一生を終えるなんて嫌だ。
塾の前まで来たけど、足が止まった。「今日はいいや」と呟いて、私は踵を返す。
何となくそういう気分じゃなかった。
ポケットに手を突っ込んで歩き出した。どこに行く当てもない。ただ、いつもと違う方向へ歩いてみたかった。
別に何かあるわけじゃない。ただトボトボと歩みを進める。
喉が痛みそうな空気の冷たさに、今日はマフラーを家に忘れてきたことを思い出させた。
住宅街を抜けた先は、枯れた田んぼが続くばかりだった。
大通りから外れており、遠くに車のライトが動いているのが見えるくらいで、
他に人の様子もなく、本当に静かでそれが少し心地よかった。
ふと顔を上げた先に、何かがあった。
枯れた田んぼの中、ぽつんと立つ蛍光色の扉が不気味に浮かび上がる。
その異様な存在感は、まるで絵画の中に迷い込んだような錯覚を与えた。
この枯れた茶色の背景色に似つかわしくない色合いで、街灯のない薄暗い中でも、その異様な存在感だけは際立っていた。
どうしてこんな場所に?
周りに人がいないのを確認すると、私は恐る恐る田んぼの中に足を踏み入れた。
刈り取られた稲の株をゴリゴリと踏みつけるたび、足元から微かな音が響く。
近づくほどに、その扉は周囲の世界と断絶された異質な空気を纏っているように感じられた。
こういう何か変わったモニュメントなのか?
ノブを握りしめ、ひねってみると開きそうな感じはあった。
力を込めて押し込んでみると、開いたドアのすき間から空気が抜けていくような感触があった。
それに吸い込まれるように、右足はドアの向こう側へと飛び越えようとした。
地面がない───!
空振りした右足は勢いのまま身体をドアの向こうへと落とした。
ドアノブにブぶら下がろうと強く握りしめたが、つるりとした丸いノブからあっけなく指は離れてしまった。
空気が耳を裂く音を立てる。全身が無重力に包まれる感覚。
空中のどこにも触れるものが存在しない。もがいてももがいても、ただただ空振りし続ける。
空中?空?空なのか?下に落ちたなら地中か?
見下ろすと、街の明かりと山々が遠ざかるように視界に広がる。これは空だ!
手を伸ばし、必死にもがいたが、何も掴めない。考える間もなく、全身が地面へと急速に近づいていく。
例えば、階段の高いところから飛び降りるとか、トランポリンで高く飛ぶとか、そういう経験はある。
でも今はそれよりも明らかに落ちている感覚が長い。こんな長時間空中にいた経験がないからこそ今わかる。
死───その瞬間、恐怖というよりも、悔しさと未練が胸を押し潰すようだった。
そう思った途端、今までの人生が百倍速くらいでブワっと頭の中に流れ込んできた。
あと何秒後に地面に到達するのか、もうこんなこと考えてる間に激突して意識なんて一瞬に吹っ飛んでしまう。
しかし、思っていた以上の地面の遠さに走馬灯はもう見えなくなっていた。
逆にまだ、こうして生きて考えることができることは幸いだった。
何も出来ずに死ぬのは嫌だ。
コートをパラシュートのようにできないか?何とかコート脱いで、真ん中が膨らむよう、仰向けになって袖と裾を両手で掴もうとした。
しかし空気の圧が強すぎて、握力が全く耐え切れず、コートは一瞬でどこか遠くへと吹き飛んだ。
他に手段はないか必死に考える。身体全体を大の字に広げて少しでも抵抗を受けて減速しようと試みた。
いや、違う。前に授業かなんかで聞いたような気がする。
高いところから物を落としたとして、物によらず落下速度は同じみたいなやつ。落ちる速度は確か一定だった気がする。
だから、2階から落ちようがこんな空中から落ちようが変わらないんだ。……多分。
スカイダイビングの事故とか飛行機事故でも、奇跡的生還したといったテレビ番組も見たことあった気がする。
結局落ちる場所が問題なんだ。消防でもデッカいクッションを敷いて人命救助とかしているのをテレビでみた。
柔らかいところに落ちれば可能性はある。
雪は期待できない。今年はそんなに降らなかった。森とか?木にぶつかるのは大丈夫なのか?
海は?わからない。水に落ちるのはダメだったような気がする。
考えている間にも明らかに街の風景が近づいてきている。
住宅がちらほら見えるくらいで、ほとんど田んぼだ。
街のど真ん中のコンクリートじゃないだけマシか。
後は……漫画で読んだ五点着地だったか。とにかく着地の時に衝撃を逃がせば可能性があるってことだ。
要はタイミングだ。地面に追突するまでの時間が分かればいいんだ。
目測から距離を想定して落下速度で割れば……いやもうフィーリングで行くしかない。
眼前いっぱいに田んぼが迫った一瞬、見えた。さっきの扉が真下にあった。
ドスン、と背負い投げを食らったかのような衝撃が全身に走った。
痛みはある、けど……生きてる。天空から落ちたにしては軽すぎる衝撃だ。
最後に横倒しになった扉の中に入ったのはわかった。最初に落ちた時にドアノブを引っ張ったから倒れていたのだろう。
プップと車のクラクションが聞こえた。
母の車のライトが私を照らしている。窓から母が顔を出した。
「ちょっと大丈夫?派手に転んでたけど」
よく見ると、いつもの迎えの場所に私はいた。ちょうど母が迎えに来たタイミングだったようだ。
「あんた、コートはどうしたの?」
一瞬考えて、突風で飛ばされて川に流されたことにした。
適当な嘘にも関わらず、母はそれ以上特に言及しなかった。まぁ、いつものことか。さほど私に興味を持たない。
立ち上がって地面に足をついてみれば、先ほどまで空中でもがいていたことの方が嘘の出来事のように思えてきた。
ただ、そんなことより私は悔しかった。なぜ扉があったのか、なぜ空中に落ちたのか、そんなことはどうでもいい。
それがあったことは私の中では事実で、地面に激突する間際、運よく扉の中に再び落ちたことでこうして助かっている。
いや、そうじゃない。
───もっと自由に空を飛べたならよかった。
空高くに放り出されて、今の私には落ちることしかできなかった。
落ちる中、足りない知能で必死にもがいて、情けない。
もっと自由に空を翔けられたなら、そのままあの山々の向こうまで超えられたかもしれないのに。
どこまででも飛んでいけたかもしれないのに。
飛ぼう。飛んで飛んで、いつかあの白い山脈の壁を越えてやろう。
心に誓いを立てながら、私は母の車に乗り込んだ。