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常識的ではないが快適な結婚生活の、破綻と切掛




大寒の朝に、最愛の娘が家を出た。

まだ中学生の娘が。

昨日から細雪が降ったり止んだりしていた。

マンションの駐車場に、妹が呼んだタクシーが待っていた。

行くなら雪が止んでからにしてほしい。そう言うと、娘は、紗雪は、まずは目を三角にして、深いため息をついた。

強い憤りを圧縮させて、あらゆる罵詈雑言を飲みこんでいるみたいなため息。わたしは、このため息を、ありとあらゆる人につかれて生きてきた。おそらくは、春樹さんと、聖慈くん以外のほとんど全ての人から。


「吹雪じゃないし、タクシーだし。行けるよ。叔母さんには予定がある」


煽るような口調だけど、紗雪は間違っていない。親族経営とはいえ管理職の妹は、この日の為に仕事を調整していた。

間違るのは、いつもわたしだ。

いつもそうだ。うまく行っていると思って、破綻するまで気がつかない。

紗雪に「何でわたしを産んだの?」と聞かれたことがある。

でもわたしは、人工授精で彼女をこの世に呼んだことを、間違いだとは思わない。

彼女の存在は、いつだって絶対的に正しい。紗雪も、お兄ちゃんの颯司(そうし)も。


間違っているのは、わたしだけ。きっと人生を何度やり直そうと過ちを繰り返し、どこかのタイミングで子どもたちを深く傷つけるのだろう。

ごめんなさい。間違いだらけのわたしから、あなた達は正しく生まれてきてくれたのに。




子どもの頃から、ひどくバランスの悪い人間だった。

「勉強はできるのに、なんで?」と言われて育った。

リレーは1番なのに、縄跳びができない。

教科書は丸暗記できるのに、毎日忘れ物と落とし物をしてしまう。


勉強はできても仕事ができない。大学3年で内定が決まった商社は、たった2ヶ月でクビになってしまった。

やる気がないわけじゃない。仕事内容も、容易に理解できた。でも、入力ミスが並はずれていたのだ。それ以外にも、忘れ物や落とし物、失せ物が相次いだ。新入社員が会社に損害を与えてしまうほどに。


呼吸するようにミスをするわたしは、なかなか社会人になれなかった。学歴的にはありえないほどレベルを下げても、ダメだった。

レジ打ちも、入荷検品も、ウェイトレスもクビになるか、居た堪れなくなって辞めた。

親は同族が経営する会社に入ればいいと言ってくれたけど。それだけはイヤだった。ポンコツの詳細がバレたくないってプライドもあったし、どこにも居場所がなくなる気がしたから。


捨てる神あれば拾う神ありで、趣味の染め織物でできた友人から、クリーニング屋さんの内勤をすすめられた。

今どき珍しい、自宅で染み抜きをする昔ながらのお店で、わたしには天職だった。

でも、店主の傘寿を区切りに、歴史ある個人店は閉店してしまった。

仕方なくチェーン店に転職したけど、チェーン店は業者に委託するから染み抜きの技術なんか不要だ。

受け取りでも受け渡しでもミスを連発するわたしに、受付業務はできない。洗濯工場は、遠すぎて論外だった。

諦めて、派遣に登録した。以来、物流倉庫の片隅で、ひたすら段ボールを作っている。



こんなわたしだから、自転車の鍵を小学生の頃から妹に管理してもらっていた。家の鍵なんか、絶対に持たせてもらえなかった。


結婚してからは、さすがに持っているだけでマンションのオートロックを開閉するキーを預かっている。

背中には毎日ヴィトンのリュック。

鍵を入れたサイドポケットは、夫の春樹さんから「絶対にジッパーを開けないで」と厳命されている。

それでもバッグごと落としたり忘れたりするから、何回も警察の落とし物係のお世話になったり紛失したりしているけど。

春樹さん的には「紛失年3回までは想定内」なんだそうだ。

ヴィトンなのは、どんな服とも合わせやすくて浮かないから。物流センター内では若干浮くけど。ジーンズにポロシャツかセーターが定番のわたしには、まあしっくりくる。


春樹さんは、わたしという人間の扱いをよく知っている人だ。

玄関にはゴミ箱がある。チラシはここに捨てると決まっている。

下駄箱の上に、A4のプラスチックラックがある。

住所の書いてある手紙は、いらないDMも、全部ここに入れる。

19年の結婚生活で、合格点をもらえたのは、洗濯とアイロンがけ、そして春樹さんのネクタイを選ぶこと。

かろうじて落第しなかったのは、メモに書かれたお買い物。


できる家事を完璧にすれば良いだけの主婦ニートになれたわたしは、いわゆる勝ち組なのかもしれない。

住居は、タワマンと高層マンションの中間あたりで最上階。

夫は同じマンションの2階に事務所を構える司法書士。

広々とした、夜景の綺麗なリビング。

全室フローリングの6LDKで、それぞれに個室がある。わたしの部屋は、東側に窓がある。家具は、アクタスで揃えた。


マンションの住人は良い意味で個人主義だ。それも助かる。あいさつはにこやかだけど、お互いの生活には踏み込まない。


理想の結婚。

幸せな結婚。


みんなに言われる。わたしもそう思う。

だけど、この結婚生活には、人に言えない秘密があった。

それは、お妾さんの存在だ。さらにいえば、お妾さんは女性ではない。夫は、ゲイなのだ。




19年前、夫の春樹さんとお見合いで知り合った。

「段ボールを作り続けることが、わたしの人生なんだなあ」と、薄ぼんやり思っていた24歳の春だった。


情けないけど、段ボール作りは嫌いじゃない。

左右をぴったりと合わせ、一ミリの歪みなくテープを止める。テープの切れ目もまっすぐにする。完成した段ボールが持つ直角の美しさは、ちょっとした誇りだ。


でも、わたしの両親はそう思ってはくれない。

わたしが社会にお役に立てるスキルなんて段ボール作りしかないとわかってはいても「普通の女性」であることを、「親が信じる娘の幸せ」を、諦めきれなかったのだろう。

「会うだけで良いから」と、お見合いをセッティングされた。


今どき、このシチュエーションある? と、聞きたくなるような日本料亭に、振袖を着ていった。

高校まで公立だったからあまり意識してなかったけど、いわゆるお嬢様だったな、わたし。と、他人ごとみたいに思った。


お見合いの席には、スーツ姿のイケメンがいた。

細身で背が高くて、縁のないメガネをかけている。

色白で、目元がスッとしている。

顔もだけど、指と姿勢が綺麗な人だと思った。勤務先の物流センターには、絶対にいないタイプだ。


料亭だけあって、それはそれは豪華な和食が出てきた。せっかく好物の蟹が出たのに、長い袖が気になってろくに味がしなかったけど。

食事が終わると、「あとは若い人だけで」と、それぞれの両親と仲人さんが退席した。


お見合い相手の古雅春樹さんは、ホッとしたようにネクタイを緩めて寛いだ。


「緊張、しましたよね。こんな時代錯誤なお見合いに、つきあわされて」


司法書士という職業柄、いろんな人と話すせいだろうか。穏やかで、的確な話し方をする人だ。


「アイスミルクティー」


わたしは、ほんのりと汗をかいたグラスを引き寄せた。


「着物を汚すのが怖いから、ストローがありがたいです。釣書に、氷無しのアイスミルクティーが好きって書いたから、注文してくれたんですか?」


「ええ、まあ」


「ありがとうございました。お陰様で、デザートは楽しめました」


指でつまめる、小さな小さな抹茶カヌレと、小豆のフィナンシェ。

作り笑顔だった春樹さんの口元が、自然に緩んだ。


それから、紅茶談義になった。

春樹さんは大の紅茶好きで、自宅に職場にお気に入りの紅茶セットを揃えているという。

別名「紅茶奉行」

この料亭は、食後のデザートに出す紅茶にも手を抜かないから、信用できると言う。

わたしは煎れるのは下手くそなくせに味の違いにだけ敏感という、たいそうめんどくさい人種なので、紅茶について誰かと語ったことはなかった。

春樹さんには「ぜひ、僕の紅茶を飲んでもらいたい」と言われた。


「こんなに気の合う女性ははじめてだ」とも、他意なく言われて「ん?」と思った。


同世代をランダムに10人集めたら2位か3位くらいのイケメンで、いかにも清潔そうで、将来安泰な司法書士で、物腰の柔らかな、女性の理想が服を着て歩いているような男性が、気の合う女性と会ったことがない……ですと?


お見合いの席限定の社交辞令にしては、やけに真実味があるなあと思っていたら、パーン! と、和紙の鶴が舞う襖が開かれた。


襖の奥には何故かお布団セット。

気が合ったら、やっちまえってことだろうか。

互いの両親の焦燥感が、半端ない。

そのお布団セットから、茶髪でチャラ爽やかそうな男性が飛び出してきて、襖をぶち開いたのだ。


「ハル! 見合いなんて、許さない!」


つかつかとやってきた男性は、春樹さんの顎をグイッと持ち上げて、濃厚なキスを披露した。


ご両親の話によると、真面目で潔癖症の彼は、彼女いない歴=年齢で、浮いた話ひとつなかったらしい。


キスを仕掛けたのは茶髪の彼だったけど、攻守逆転してグイグイいきはじめたのは春樹さんの方だった。


そりゃ、彼女できないよねえ……。




チャラそうなのになぜか爽やかに見える男性は、柊木 聖慈くんと名乗った。高校卒業後に欧州のクラブチームに在籍して、政情不安で帰国した、元サッカー選手だとか。

帰国後は、スポーツバーで働きながら、ブログや雑誌に記事を書いたり、ジュニアチームでコーチをしたりしていたらしい。


士業の春樹さんとは接点なさそうだなーと思って聞いてたら、エスパーかってタイミングで春樹さんが教えてくれた。


「高校の後輩なんです。僕はなんとなく部活に入って、仕方なく部長やってただけなんですけど。こいつはずば抜けてサッカーが上手くて」


馴れ初めが、なんか爽やかだな。

ていうか、春樹さんってサッカーするんだ。運動神経は良さそうに見えたけど、色が白いせいか意外に思った。


「ふぅん。憧れのセンパイを忘れたくて海外に行ったけど、結局忘れられなくて帰国したとかいう?」


「あんた、初対面のプライベートにグイグイくるね」


わたしをライバルとでも認定したのだろうか。

値踏みするような目つきだ。


「初対面にプライベートを見せつけてきたのは、あなたの方ですから」


しれっと答えると、一瞬だけきょとんとして、ゲラゲラ笑いだした。


「面白い女だね。あんた」


「あんたじゃない。鳥栖 夏海よ」


「夏海チャンもさ、美人よりの可愛いだし、親は同族経営の製薬会社の常務だし、M大卒の才女なのにさ。なんで物流倉庫で派遣なんてやってんの?」


「おい、失礼だ!」


やたら挑発的な聖慈くんを、春樹さんがたしなめた。彼氏にメロメロかと思いきや、ちょっと意外だ。


「貴方に説明しなくちゃいけない理由は、ないわ?」


笑顔で睨みつけるも、聖慈くんはますます楽しそうだ。性格悪いな。PKでワクワクしちゃうタイプの心臓なんだろうな、きっと。


「悪くないね。コレ。なあ、ハル。こいつと結婚しなよ?」


「はあ?!」


「ハルは女を愛せない。夏海チャンはなんらかの社会不適応者で、由緒正しいご実家に居場所がない。独り立ちできる稼ぎもない。違う? なら、ちょうどいいじゃん? 士業には、お飾りでも妻が必須なんだろ?」


「決めつけるなよ。失礼だろ。夏海さん、すみません。後日、お詫びさせてください」


春樹さんか真摯な姿勢を見せても、聖慈くんはニヤニヤ笑いを止めない。


「結婚。してもいーよ」


考えるより先に、答えを出していた。

きっと、こういうことは考えても無駄なのだ。

最初から、答えが決まっているのだから。


「聖慈くんが、主夫するなら」


「ハア?!」


「親たちは孫の顔が見たいんだろうけど、お察し通りわたしには無理。体外受精で子どもを産むのはやるから、聖慈くんが子育てしてよ。それなら、結婚するわ」


バッサリ言い捨てると、聖慈くんは「おもしれー!」と手を叩き、春樹さんは「……めちゃくちゃだ!」と両手で顔を覆った。





あの時は、これ以上ない、極上の名案だと思った。

みんなハッピーになれると信じていた。


子どもたちが、特に紗雪が、この楽園に傷けられる未来図なんて、予想もしなかった。


わたしの楽園が、紗雪の地獄になるだなんて。







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