1-9.言葉の壁
豹獣人たちの集落を後にし、新たに旅を共にする事になった弟豹獣人と、林道を歩いていた。集落から続く道は砂利道で、両脇には木々が生い茂り、木漏れ日が柔らかく降り注いでいる。
林道はハイキング気分で歩けるほど快適だった。
ふと俺は、自身の名前すら弟豹獣人に伝えていなかった事に気づき、彼に声を掛けた。
クライス「魔物との戦闘やらですっかり忘れちまったが、俺の名前はクライスだ。これからよろしくな」
そう名乗ると、弟の豹獣人は嬉しそうに胸をポンと叩きながら、「にゃんにゃかにゃんにゃか」と猫語で何やら言い始めた。恐らく、彼も自己紹介をしてくれているのだろう。
クライス「ありがとな。……だが言葉が理解できねぇから、お前さんの名前は分からずじまいだけどな」
苦笑いしながらそう返すと、彼は少しだけ残念そうな顔をしつつも、気まずさを和らげるように作り笑いを浮かべた。
実際、これから共に旅をするというのに、言葉が通じないのは大きな問題だ。どうにかして意思疎通の方法を見つけたいところではあった。
そんなことを考えていると、ふと昨夜の宴の光景が脳裏をよぎった。
日が沈み、あたりが薄暗くなるころ、俺たちは集落の広場に招かれた。老豹をはじめ、大柄な豹獣人や村の面々が次々と集まり、それぞれが酒やつまみを持ち寄っては、和やかで賑やかな宴が始まったのだ。
その中で他愛もない話をしたのだが、彼らは俺の言葉に頷き、笑い、ときには真剣な表情すら見せてくれた。間違いなく、言葉の意味を理解しているようだった。
その反面、俺には彼らの猫語が全く分からなかった。
表情やジェスチャーに助けられ、なんとなく会話が成立したような気がしたが、それはあくまで勘に頼るものだった。言葉そのものの意味が分からない以上、細かな意思疎通には程遠く、その事実が歯がゆくてたまらなかった。
賑やかな笑い声に包まれる宴の空気のなかで、ふと自分だけがどこか遠くにいるような――そんな孤独が胸をひっそりと締めつけていた。
どうして俺の言葉が通じるのか、それが気になって、彼らに尋ねてみたところ、問いかけた豹獣人たちは揃って、本を読むような仕草を返してきたのだ。
どうやら、語学を学んで理解できるようになったということらしい。
今、こうして隣を歩いている彼も、まだ成人したばかりに見える年齢ながら、相当な努力を重ねてきたのだと、その勤勉さには素直に感心したものの、ひとつ疑問が浮かんできた。
クライス「なぁ……お前さんたちは、語学を学んだから、俺の言葉が理解できるんだよな?なら、なんで”話せない”んだ?」
その問いに、彼は難しい顔をして首を振った。しばらく考え込んだ後、何かを思いついたようにパッと笑顔を見せると、足元の小石を拾い上げ、地面に何やら文字を書き始めた。
一通り書き終えると俺にその文字を見せてきた。
クライス「……魔導書?」
書かれた文字のほとんどは解読不能だったが、「魔導書」という単語だけは読めた。弟豹獣人は驚いた表情を浮かべると、さらに文字を追加で書き込んだ。しかし、最初に読めた「魔導書」以外は全く理解できない。
彼もそれに気づいたのか、肩をガクンと落としてしまった。
しばらく考え込んだ後、彼は俺を指さし、再び本を読むジェスチャーをしてきた。
クライス「結局、本を読めってことなんだな……」
その答えに彼は大きくうなずく。
自慢ではないが――いや、自慢にならないが――俺は本を読むのが大の苦手だ。魔導書の事も大きいが、元々村で狩りをして暮らしていた俺にとって、文字なんてものは必要なかったし、そもそも言語を学ぶという発想すらなかった。
”あいつ”に指摘されるまでは……。
クライス「……”あいつ”って誰だ?」
ぽつりと呟いた自分の声に、ハッとした。
思い出そうとするたびに、頭に霧がかかったような感覚が広がり、記憶の深くに触れようとすると、鈍い頭痛がじわじわと押し寄せてくる。
(狼獣人……。そうだ、あいつは狼獣人だった)
かすかに脳裏に残っているのは、どこか柔らかく優しい声。
――だが、どんな言葉だったのか。俺に何を伝えようとしていたのか。その肝心な部分だけが、どうしても思い出せない。
(忘れている……?でも、この胸騒ぎは何なんだ?)
記憶に蓋がされたような、意図的に閉じ込められているような不自然さが、心の奥底で渦を巻いている。
俺の過去、一体どうなってるんだ?
思い出せないことが焦りとなり、焦燥感がどんどん膨れ上がっていく。
弟豹獣人「にゃにゃんにゃ!」
突然かけられた声で我に返った。無意識のうちに考え込み、長い間黙り込んでいたらしい。
クライス「すまん……考え事をしていた」
苦笑いを浮かべながら返事をすると、弟豹獣人は呆れたように「にゃ~ん」と低い声を漏らした。
クライス「にゃ~んか……」
俺は小さく苦笑しながらその声をなぞった。すると、不意にある考えが浮かんだ。彼らの会話は、いつも“猫語”だ。これまでに一度たりとも、猫の鳴き声以外の言葉を耳にしていない。
もしかすると、彼らの声帯自体が、猫語以外の発声に適していないんじゃないだろうか。
それでも、他種族との交流を考えれば、言葉が通じないことで誤解や衝突が生じる可能性は大きい。彼らはそのリスクを避けるために、話すことはできなくても理解するために語学を学んでいるのかもしれない。
文字を書けている状況を見るに、筆談での意思疎通は可能なはずだ。
クライス「もし次に行く場所が、大きな街なら本屋を探すか……」
うなだれる俺の隣では、弟豹獣人が胸を張り「俺が教えてやる」と言わんばかりの表情で、肩をポンポンと叩いてきた。その頼もしさに、思わず笑みが漏れる。
クライス「ありがとよ。それはそうと、お前さんの呼び名が無いと色々不便なんだが、あだ名をつけても良いか?」
その言葉に、彼は目をキラキラと輝かせ、大きくうなずいた。
クライス「そうだな……」
彼は、俺よりも背丈が低く小柄だ。特徴的なのは、やはりその白く美しいふわふわの毛並みであろう。豹獣人特有の黒いぶち模様が白にとても映えている。彼の瞳の色は濃い青を中心に、徐々に薄みがかっていて夜明けの空を切り取ったかのように澄んでいて美しい。
クライス「毛玉ちゃん、なんてどうだ?」
冗談半分で言った途端、毛玉ちゃんの顔は険悪な表情に変わった。
クライス「ははは。冗談だよ。簡単で悪いがシロなんてどうだ?見たまんまだけどな」
毛玉ちゃん「にゃお……」
恐らくシロと口にしてみたのだろう。その響きが気に入ったのか、彼は満面の笑みを浮かべ、大きくうなずいた。
シロ「にゃお!」
クライス「気に入ったみたいだな。改めてよろしくなシロ!」
シロ「にゃん!」
そんな何気ない会話を交わしつつ、俺たちは林道を歩き続けた。次第に道幅は狭まり、視界の先には森の入り口が見え始める。シロは躊躇することなく森の中へ進み、林道から続く獣道を辿り始めた。
前を歩くシロの説明では、左に一度、右に一度曲がるだけだったはずだが、今は森の中である……。
(嘘だろ……。土地勘のない人間が一人で入ったら絶対に迷子になるだろ!森の説明は無かったぞ!)
心の中で叫びながらも、俺はシロの後を追った。
30分ほど歩いただろうか。森の中は目印となるものが何一つなく、完全に方向感覚を失っていた。ただ、わずかに続く獣道だけを頼りに、慎重になぞりながら進んでいた。
突然シロが振り返り、笑顔で前方を指差したが、その先には、大きな崖がそびえ立っていた。
(行き止まり……?)
そう思った矢先、シロはにゃ〜んと声を発し、左へ曲がった。
(もしかして……説明にあった「左に一回曲がる」って、この崖のことか?分かりにくっ!)
思い返せば、昨日のジェスチャー道案内では、左に曲がるときだけ不自然に直角に曲がっていた。どうやらあれはこの崖を示していたらしい。
俺は一抹の不安を覚えつつ、シロの案内を頼りに森を進んだ。木々の間を抜けるたび、陽光が差し込み、森の終わりが近いことを感じさせる。やがて、視界が開け、森を抜けた先には高台が広がっていた。
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