1-4.そして振出しに…
俺は、着地と同時に体勢を整え、身体をひねると、両腕に渾身の力を込めて、斧を振り抜いた。
クライス「消えうせろぉぉぉぉ!!」
斧は、魔物の大きく抉れた傷に深々と食い込み、硬い木の皮は裂かれ、内部の脆い部分へと刃が到達した。
バキィィィ!!
巨大な樹の魔物が、鈍い音を立てながらへし折れ、そのまま、ピクリとも動かなくなった。
俺の心臓は、いまだ破裂しそうなほど激しく脈打っていた。
クライス「大丈夫か?」
豹獣人に声をかけたが、その場に座り込んだまま、ぽかんとした顔で俺を見つめている。
クライス「立てるか?」
手を差し伸べたその時――
豹獣人「にゃーん!」
豹獣人は半べそをかきながら俺に飛びついてきた。
その姿はまるで、高い木に登ったはいいが降りられなくなった猫そのものだった。
思わず笑いそうになりながらも、白い毛玉のような体を支える。
しかし、これが普通の猫ならともかく、相手は成人したばかりだろうか、まだ若いオス獣人。それなりに重い。
クライス「怪我は大丈夫か?」
そう尋ねた途端、豹獣人の表情が一変した。顔が青ざめ、今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。
豹獣人「にーにゃん!」
叫ぶや否や、豹獣人は弾かれたように駆け出していった。
彼の表情や行動から、ただならぬ事態が起きていると直感するには十分だった。
クライス「おい、待ってくれ!」
慌てて後を追った。
数十メートル走ったところで、先ほどの豹獣人が地面に向かって必死に呼びかけているのが見えた。
その視線の先に、白い毛並みの豹獣人が、血溜まりの中に倒れていた。
豹獣人「にーにゃん!にーにゃん!!」
状況は最悪だった。
背中には深い傷。
地面を濡らす大量の血。
もう手遅れだ――そう思った矢先、倒れた豹獣人の肩が、微かに上下するのが見えた。
まだ、息がある。
クライス「おい、お前の住んでる場所はどこだ?村でも街でもいい、案内してくれ!」
伝わるかどうかも分からなかったが、豹獣人は大きく頷くと、倒れた仲間を抱き上げようとした。
それを俺は制し、すぐに自分の上着を破り、できる限りの止血を試みる。
(……間に合ってくれ)
俺は止血を終えると、豹獣人をそっと抱き上げた。
クライス「行くぞ!」
その声を合図に、若い豹獣人は走り出した。
俺も、倒れた豹獣人を抱えながら、その後を全力で追う。
抱きかかえた豹獣人の息が弱まるたびに焦燥感が胸を締め付けていく。
(……急がねば……!)
どれほど走っただろうか……。
ようやく前方に、集落らしき場所が見えてきた。
豹獣人「にゃんにゃ! にゃんにゃ!」
先を走る若い豹獣人が、大声で何かを叫ぶ。
彼の声に反応するように、集落の豹獣人たちが姿を現し、その中の一人の女性が、駆け寄ってきた俺たちを見るなり、悲鳴を上げた。
その叫び声が引き金となり、さらに多くの豹獣人が集まってくる。
ざわめきが広がり、その中から、他よりも体格のいい大柄の豹獣人が、表情を険しくしながらこちらへ駆け寄ってきた。
クライス「こいつを頼む!医者がいたらすぐに見せてくれ!ついさっきまで息があったんだ!」
俺の言葉が通じたのかどうかは分からない。
だが、大柄の豹獣人は短く頷くと、俺の腕からぐったりとした豹獣人を慎重に受け取り、すぐさま駆け出した。
一緒に走ってきた若い豹獣人も、その後を追いかけていく。
未だ焦燥感が残る中、周囲に残った豹獣人たちが俺をじっと見つめているのに気が付いた。
警戒と困惑の入り混じった視線。
そんな中、一人の年老いた豹獣人が、ゆっくりと歩み寄ってきた。
老豹「みゃんみやおん、みゃみみゃおん。」
その言葉を聞き、うすうす感づいていたことが確信へと変わる。
言葉が通じない。
クライス「ごめん。俺、お前さんたちの言葉が分からないんだ。」
老豹「みゃお、みやみや、みゃお〜ん。」
年老いた豹獣人は、穏やかな動作で手招きしてきた。
敵意は感じられず、周囲の豹獣人たちも、まだ警戒を解いていなかったため、俺は年老いた豹獣人の後を追うことにした。
◇ ◇ ◇ ◇
彼に連れられ、辿り着いたのは、質素な民家だった。
暖炉の火が静かに揺れ、室内には仄かに草木の香りが漂っている。
椅子を指差され、促されるまま腰を下ろすと、彼は木の器に入った飲み物を差し出してくれた。
クライス「……ありがとう」
受け取りながらそう言うと、老豹は静かに頷いた。
沈黙が訪れ、飲み物の表面が、静かに揺れる。
時間がひどく長く感じられた。
コンコン
しばらくして扉をノックする音が鳴り響いた。
老豹が立ち上がり、戸を開けると、先ほどの大柄の豹獣人がいた。
二人はしばし猫語で言葉を交わした後、老豹が俺の方を向き、手招きする。
クライス「……分かった」
器を静かに置き、二人の後を追った。
◇ ◇ ◇ ◇
案内されたのは、こぢんまりとした別の民家だった。
扉をくぐった瞬間、息が詰まった。
血の匂い――。
部屋の奥、ベッドの上に、血まみれの豹獣人が横たわっていた。
その傍らには、もう一人の豹獣人が呆然と立ち尽くしている。
目からは涙が流れていたが、自身が涙を流していることにすら気づいていないようだった。
この場の空気だけで、すべてが理解できた。
クライス「……すまん」
ポツリと漏れた言葉は、地面に吸い込まれるように消えていった。
老豹が、俺の方を向き、何かを言うが、その言葉は理解できない。
けれど――
深くお辞儀をする彼の仕草が、何を意味しているのかは、痛いほど分かった。
クライス「俺は……何もできなかった」
苦々しい言葉が、喉の奥に絡みつく。
俺がもっと早く加勢できていれば……。
俺がもっと速く森を駆けていれば……。
何度も何度も、自分を責める言葉が頭を巡る。
だが――
どれだけ悔やんでも、死んでしまった彼はもう還らない。
そんな奇跡は、この世のどこにも存在しない。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、俺はそっと家を後にした。
扉を閉める間際、横たわる豹獣人の隣で、放心したまま立ち尽くしている彼の表情が目に焼き付いた。
きっと、彼らは兄弟だったのだろう。
家族を失った悲しみが、胸を抉った。
◇ ◇ ◇ ◇
俺はいつの間にか、集落の外まで来ていた。
歩いていたのか、ただ彷徨っていたのか分からない。
(……戻る必要も、ない)
そう思いながらも、足を止めることなく、俺は前へと進む。
空はどこまでも灰色で、心の奥底に巣食う重たい感情は、まだ居座ったままだった。
無意識にズボンのポケットへ手を突っ込んでいた。
指先に触れたのは、硬く冷たい感触――ジャラ、と微かに音を立てるそれを取り出すと、美しい装飾が施された懐中時計が手の中に納まっていた。
その瞬間、遠くから声が聞こえた。
豹獣人「にゃっにゃ〜!!」
振り向くと、先ほど放心状態だった豹獣人がこちらに向かって走ってきていた。
息を切らしながら、俺の前で立ち止まる。
豹獣人「にゃんにやん。にゃににやにややん、にゃににゃおん」
理解できない猫語を発した後、深く頭を下げる。
大切な人を亡くした直後だというのに、お礼を言いにきたのだろう。
律儀な子だ。
クライス「……俺は何もできなかった。本当に、すまない……」
俺の謝罪に、豹獣人は泣きそうな顔を見せたが、必死に堪えるように口を結び、もう一度、深くお辞儀をした。
その姿を見るに耐えず、俺は無意識のうちに豹獣人を抱きしめていた。
クライス「我慢なんかしなくていい。泣きたいときは、気が済むまで泣いていいんだ」
豹獣人はしばらく耐えていたが、やがて、堰を切ったように大きな声を上げて泣き始めた。
その泣き声は、声が枯れるまで止まることはなかった。
それは、とても暖かな日だった。
空にはゆっくりと陽が昇り続け、穏やかな時間が流れていく、そんな日だった。
やがて、ひとしきり泣き終えた彼は、ゆっくりと俺の腕の中から離れていった。
豹獣人「にゃんにやん、にゃににゃおん」
クライス「すまんな、俺はお前が何を言ってるか理解できないんだ」
俺の言葉に豹獣人は、少しだけ笑顔を見せると手を振った。
その仕草に、俺も小さく手を振り返す。
クライス「あぁ……またな」
そう言い、ゆっくりと歩き出した。
そして、盛大に転んだ。
自分でも驚くほど派手に転び、地面に叩きつけられる直前、咄嗟に手をついていた。
その瞬間――
手に握りしめたまま、ずっと仕舞う事ができなかった懐中時計が、手と地面に挟まり、「ガチャッ」という音を立てた。
途端に世界が歪む。
視界がぐにゃりと捻じ曲がり、何かに意識を引っ張られる感覚が襲う。
ゆっくりと目を開けると――
俺は、墓石の前に立っていた。
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