9 クドリャフカの心配
「それはそうと」
工藤君は今さらのようにちょっと身をかがめて、観葉植物の向こうをうかがった。
「やっぱりあれは、気になりません?」
団長の消えていった、奥のスペースのことである。
「……」
私は言葉に詰まった。
気にならないと言えばうそになる。いや、猛烈に気になる。『それを知りたくて来たんじゃないですか』と工藤君もさっき言っていた。
でも。
「あんまり、詮索するのも失礼じゃない?」
「そうかもしれませんが、このまま放っておくのも」
「スーツ着てたでしょ。就活とかだったら、変なことをして先輩の心証が悪くなったら困るし」
「合気道の大会でスーツを着て受付とか誘導のお手伝いをしたことが何度かあるんでわかるんですけど、ああいうネクタイを下っ端がやったら確実に怒られます。ちゃんと上まで締めろって」
工藤君は眉をひそめた。
「瀬戸先輩はもっと力仕事の手伝いをしてたんで一緒に受付をしたことはないですが、それを知らないとは思えません。就活生ならなおさらですよ」
「ってことは、就活じゃない……って言いたいの?」
「普通のOB訪問とかじゃなさそうですよね。先輩、優しいからちょっと心配なんです」
「どういうこと?」
「例えば、変な教材販売とか勧誘商法に引っかかってるとか」
「まさか」
「でも、知り合いが、本当に困ってるんですーって騙しにかかったら?」
う、と私は息をのんだ。それは否定できない。
あのセドリック団長のことだ。人を頭から疑ってかかることはしなさそうだし、ちょっと話が変だと思っても、知り合いだったら、何か力に……って思ってしまうかもしれない。
いや、と私は首を横にぶんぶん振った。
「そんなの、めったにあるわけないもん。そもそも、就活じゃなければ一番ありえそうな可能性を無視してるじゃん」
「ありえそうな可能性って?」
「あれ、彼女さん……だったり」
ずきっと胸の奥が痛む。のどがちょっと苦しい。それでもこれを避けて通るわけには行かないだろう。
なのに、工藤君はマスクの上にちらっとのぞく鼻すじにまで盛大にしわをよせて、まるで理解できない宇宙人を見るかのような目つきで私をじろっと眺めまわした。
「それ、本気で言ってます? 安西さんが言います?」
「だって、そうでもなきゃ、あんな風に手を取ってエスコートしないでしょ」
工藤君は軽く咳払いをした。
「ないない。ないです。あのエスコートにどんな意味があるかは知りませんけど、彼女説だけは時間の無駄。僕が何年瀬戸先輩を推してきたと思ってるんですか。あー、腹立つを通り越して、瀬戸先輩がかわいそうになってきた。いやむしろ面白いのか?」
妙な自問自答を繰り広げ始める。
「何なのよ一体」
むっとして私が言うと、彼は両手のひらを私に向けた。
「じゃあ、一つ反例をあげましょうか。僕はさっき、そのまま逃げそうだった安西さんを引っ張ってここまで来ましたよね。あれって、エスコートにカウントしません?」
「言葉の定義を最大限に拡大解釈すれば、そうとも言えるのかな」
「じゃ、お互いに全く相手に異性としての興味がない男女でも、エスコートをする場面はあるじゃないですか。向かい合って一対一でお茶を飲む機会も。お互い、ジュースですけど」
「屁理屈だなあ」
そうは言ったものの笑ってしまった。
「安西さんは心配じゃないんですか? 瀬戸先輩のこと」
「そりゃ、心配だよ! でも……」
「僕もそうです。ここは一つ、共同戦線を張りましょう。僕が取り越し苦労をしていただけなら、それはそれでいいんです。でももし先輩が困ったことに巻き込まれているなら、僕は自分にできることで手助けしたい」
「でも、どうやって?」
「多分、もう少しで出てくると思うんです」
その確信ありげな様子に驚いて、私は問い返した。
「どうして?」
「だって、さっき車を停めていたの、路肩のパーキングですよ。あれは六十分で動かさないと駐車禁止違反とられますよね」
「そんなこと、よく知ってるね」
「常識でしょう。安西さん運転しないんですか?」
痛いところをつかれて、私はうっと黙り込んだ。免許も、あったほうがいいのはわかっている。取れるなら学生のうち、しかも就活が始まる前に取っておいた方がいいのも。親からも、費用は出してやるから気にするなと言われている。それでものらりくらりとかわして、いまだに取っていないのは、自動車学校という新しい環境に飛び込むのに自信がなかったからだ。
また、とっさの時に上手く声が出なかったら。パニックになってしまったら。
自分の弱点を変えたいと思って行動した、という工藤君を改めて尊敬した。
「ティールームに入るならホテルの駐車場に入れてもよかったはずです。なのにわざわざあの位置に駐車したのは、多分、ホテルの駐車場に入って出てくる時間や手間を惜しんだからじゃないかと。さっと出たい理由とか、次の行先があると思うんですよ」
工藤君は腕を組んだ。
「僕、さっきのファーストフードの駐輪場に自転車停めてるんです。安西さんは何で来ました?」
「え、普通に大学からバスで」
「なるほど。……さっき、あの自動車を運転してきたのは瀬戸先輩でした。でも、先輩が車持ってるなんて聞いたことないので、あの女性のものなのかもしれません。だとすると、この後の可能性は三つです」
工藤君は指を三本立てて、一本ずつ折りながら言った。
「一。二人ともあの自動車に乗ってここを離れる。二。瀬戸先輩が自動車を運転してここを離れ、あの女性はここに残る。三。あの女性が自動車を運転してここを離れ、瀬戸先輩が残る。いずれにせよ、僕は自動車の後をつけてみます」
「自転車で? 無謀だよ」
驚いて私が言うと、工藤君は肩をすくめた。
「夕方のラッシュで、大してスピードは出せないはずです。ある程度までは追えると思いますよ。郊外に向かっちゃって追いつけなくなったらその時点で諦めますし。安西さんは、ここに残ったほうを担当してください。女性が残った場合は、できることはあまりないかも。行き先を確かめようったって、それこそ限度がありますし、変に話しかけたら安西さんの方が不審者みたいになっちゃいますし。でももし、瀬戸先輩が残ったら、直接、何が起こっているのか聞いてみてください。僕だとあまり頼ってもらえないかもしれませんが、安西さんなら可能性があります」
推しへの愛が極まった工藤君の妙な行動力と気迫に圧倒されて、私はうなずくしかなかった。それでも、バイトの先輩としてのなけなしの威厳を思い出して、釘を刺した。
「そんなガサガサ声の体調で無茶しないでよ。無理ならちゃんと諦めて家に帰ること。これ以上風邪をこじらせて、シフトに穴開けたらみんな困るんだからね」