8 クドリャフカの誤解
二人は、私が当初から目指していたヘルメスホテルのティールームに入っていった。店員がさっと奥へと案内していく。そちらにどうやら、VIP席か個室があるらしい。どこからどう見ても普通の大学生である私と工藤君は、そちらではなく、大きなホールの中央近くの席だ。ちょうど、団長と美女が姿を消した奥側への通路を、少し離れた位置から観葉植物越しに観察できる場所だった。
「ねえねえ、あれって何だったのかなあ。先輩のお連れの方、すっごい美女じゃなかった?」
とりあえず注文をすませた後で、私は小声で言った。
ちなみに、工藤君と入った時点でアフタヌーンティーセットは諦め、クランベリーソーダにした。セットは病み上がりの人には重すぎるメニューだし、一人で頼むのも気が引ける。何より、彼にはちょっと申し訳ないけれど、同じテーブルで軽食をつまんだことでこのガサガサ、ガラガラの声になる風邪をうつされたら、たまったものではない。ヤギがガラガラ声になったなんて、絵本の題名じゃあるまいしシャレにもならない。
「わかりません。それが知りたくて来たんじゃないですか。……っていうか、僕、誤解していました」
「何を?」
「僕、瀬戸先輩は安西さんと付き合ってるんだと思ってたんです。でも、その様子だと、違うんですね?」
「違うよー! 何言ってるの」
私は赤くなった頬をごまかすように、顔の前でひらひらと手を振った。
ちょうどそのタイミングで注文のジュースが運ばれてきたので、会話が止まる。客席係の女性が去った後で、工藤君は少し首を傾げて、話を再開した。
「いえ、先輩の話しぶりを聞いてたものですから、つい。だから、ああいう場面は見たくないかもしれないし、逆にいっぺん見たら今度はすごく気になっちゃうだろうと思ったんです。勘違いで変に止めたり、無理にここまで引っ張ってきたりしてしまいました」
まさか違ったなんて、でもなあ、と彼は私にはよくわからないことをもごもごと口の中で呟くと、自分の頬をぺしぺしと軽く手のひらで叩いた。
相変わらず、ちょっと変わった子だ。
「本当に、すみませんでした」
ぺこんと頭を下げられて、私も焦ってしまった。
「いやいや、何が? っていうかやめてよ、こんなところで。目立っちゃうでしょ」
「僕、本当に誤解してたんです。研修の時から思ってたんですけど、安西さん、騎士達にもけっこう指導するじゃないですか。でも、厨房補助だったらそんなの違ってないか、とか、バイト期間が長いからって、えらそうとか思っちゃって、僕、素直に聞けてなかったんです」
眼のふちをちょっと赤くして、気まずそうに視線をそらしながら言う。
「それも、団長の彼女だから、彼女面してえらそうにしてるんじゃないかって、最初から偏見で。実際、ホールで盛大に噛み倒してたし実力もないじゃんって。そっちも、勝手な思い込みだったんですけど」
「え、めちゃくちゃ正直に言うじゃん」
私は思わず感動してしまった。この子、すごく素直だ。
「そもそものその思い込みが問題なんだけどさ、でも確かに厨房補助が騎士の所作にまであれこれ言ってるの、新人さんからどう見えるかって気にしたことなかった。言ってくれてありがとう。言われてみれば、すごい出しゃばりに見えるよね」
「いえ、後でマントの実演をしてくれましたよね。あれで目が覚めました。だてに言ってるんじゃないな、今はホールの仕事をしていないっていうだけで、根拠も技術もあって指導してくれてるんだなって。先輩の彼女さんだとしても、一言を噛み倒したとしても、それとこれとは別でちゃんと受け止めなきゃいけないなって、めちゃくちゃ反省して、落ち込んで、夜風に吹かれていたら風邪をひきまして」
「難儀な子だなあ」
笑ってしまった。工藤君のフォローに入ったのに噛み倒した失敗を、二度も引き合いに出されたけれど、その言葉に悪意は感じなかった。反省したのも落ち込んだのも、心底からだったように聞こえた。つまり、こういうタイプの子なんだ。素直すぎるくらい素直な子。
工藤君はやっぱり気まずそうに、マスクを少しだけずらしてストローをくわえ、ジンジャーエールをちびちび飲んだ。
「大体、しつこくこだわってるみたいだけど、団長の彼女だとなんなの? 違うけど」
「いえ。別に、いいんです。でもやっぱり、瀬戸先輩の彼女さんとなれば、相応の人でないと、と……!」
工藤君はテーブルの上に何気なく置いていた手をぐっとこぶしに握りしめた。
「待って待って。えらい熱量じゃん。何なの? 推しをこじらせてる系?」
「そういう言い方をすれば、そうなのかもしれません」
しょんぼりして、眉毛がハの字になる。思い込みだけじゃなくて、感情の起伏も激しい人だ。
「僕、瀬戸先輩と中学、高校も同じで」
そういえば、私立の一貫男子校だと聞いた気がする。
「気が弱い方で、なんとか変えたかったんですけど、一念発起して入った合気道部でもやっぱり同学年の間ではいじられキャラで――」
工藤君は明るくて受け答えもはきはきしていると思っていたので意外だった。そのとき声をかけてくれたのが二学年上の瀬戸先輩なのだそうだ。こちらについては、うわあ、らしい、というため息しか出ない。
「瀬戸先輩が声をかけてくれたから、このまま諦めたらダメだと思えたんです。先輩の前では、言い方は悪いですけど、見栄を張って極力元気で明るいキャラの振りをして。技の練習だけじゃなくて、堂々と振舞うのもこっそり家で練習したりしました。そんな積み重ねで、先輩が卒業するころにはどうにか、最初はただの『明るい振り』だったのが、多少なりとも自分の板について自然に振舞えるようになって、いじられる一方の立場からは抜け出すことができました。その後もずっと、いつかは瀬戸先輩みたいになりたい、と思って目標にしてたんです。だから、彼女さんができたのかなって思ったら、なんだか先輩を取られちゃったみたいで、変に反感持っちゃって」
彼はうつむいた。
(……こりゃ相当こじらせてるわ)
私は何とも言えずに、クランベリーソーダを一口飲んだ。その沈黙をどう誤解したのか、彼は慌てたように顔を上げた。
「あ、別にそういうのとは違いますからね」
「そういうのって」
「あの、BのL的な」
「いやいや、そんなこと思ってないって。ほんとに尊敬している先輩なんだねえ」
そう言うしかないではないか。
「だから、先輩がバイトに誘ってくれた時、本当に嬉しかったんです。合気道で鍛えてたから、姿勢もいいし武器術の所作もきれいだからって言ってくれたんですよ。なんだか認めてもらったみたいで」
「あー、それでか。だから余計、上手くいかなかった時に焦ったんじゃない?」
私は腑に落ちて、ぽんと手を打った。普通に始めたアルバイトだったら、始めたばかりの失敗はよくあることだし次から気をつければいい、と思うのではないか。周囲もみんなそう言ってたし。なのにあんなに凹むなんて、ちょっと違和感があったのだ。
でも、それなら何となく納得がいく。
「どういうことですか?」
「憧れの先輩で良く思ってもらいたいと思ってきた相手に認められて、仕事に推薦してもらったのに、上手くいかなかったら、信頼を裏切ったとか顔に泥を塗ったとか、そういうこと気にしちゃうタイプじゃないの、工藤君」
思い入れと気負いが、ちょっとだけ強すぎたのではないか。
彼はきょとんとした顔になった。
「しませんか、それは普通」
「するよ。するけど、だからって、初めのうちから何もかも完璧にできるわけないって」
仕事なめんなよ、と私は腕を組んだ。
「そんな簡単にできるもんじゃないでしょ。瀬戸先輩も、そんなこと期待したわけじゃないんじゃない」
ふと先輩が言っていたことを思い出して、私は思わず、ふふっと思い出し笑いをしてしまった。
――あいつ、割と前向きって言うか、ちょっとした失敗ではめげないようなタイプだと思って。
団長が彼に期待していたのは、合気道の鍛錬をベースにした完璧な所作でも、初日からノーミスを続けることでもなかったはずだ。
評価していたのはきっと、得意じゃないことだったとしても、時に上手くいかない日があっても、目標を決めて努力して確実に成果につなげていった工藤君の姿。
ちょっと背伸びして頑張っていた工藤君の表面上の出来栄えではなく、その『背伸びしてでも頑張りぬいた』部分の方をきっと見ていたはずだ。
それを私から言ってしまうのはあまりにもったいない。
「一度、聞いてみたら? バイトに推薦してくれた理由は何ですかって」
「そうしてみます」
ガサガサの声で工藤君は言って、無邪気な笑顔を浮かべた。ようやく、肩ひじを張らない素の表情を見た気がする。