7 街中でばったり
翌日は、大学で第四、第五校時通しでゼミ形式の演習があるので、普段からバイトを入れていない曜日だった。なのに当日になって、担当教員の急な事情で休講だという。
ぽっかり空いてしまった時間をどうしようか、と考えつつ、駅前の繁華街に出た。
書店で新刊のチェックをして、文具店で授業用のボールペンを買い足して、と考えているうちに、ふとひらめいた。
(よし。先週バイト代も入ったことだし、ここはひとつホテルのティールームとやらに行ってみよう)
団長も、どうやってかはわからないけれど、所作の研究をしたと言っていた。私だって、新しいことを勉強してみたい。
駅前に数年前できたばかりだという大手ハイグレードチェーンのヘルメスホテルには、瀟洒なティールームがあるのだ。現代のものとはいえ、格式の高いホテルのティールームで、ホール係がどう動いているのか、メニューがどう盛り付けられて提供されるのかを身をもって体験すれば、貴族へのおもてなしをコンセプトにした「タラリア騎士団」での接客に関しても、ヒントが得られるかもしれない。
一瞬、声のことが頭をよぎったけれど、私は意識してそれをすみっこに追いやった。物静かなホテルのカフェラウンジなら、小声だって問題ないだろう。客側の立場なら、最悪、声を出さずにメニューを指さして注文したってなんとかなる。こんなことでいちいち行動範囲を狭めていたら、いつまでたっても今のままだ。
思い立ったが吉日だ。たまたま、大学に行くのに、Tシャツとデニム、スニーカーのいつものスタイルではなく、長めのスカートに、ローヒールとはいえパンプスだったのも運命だろう。下手に後日に伸ばしてしまえば、また、声のこととか服装とか色々悩み始めてしまって、行けなくなるかもしれないし。
(だとすると、アフタヌーンティーセットを頼むべきだよねえ)
お一人様でも大丈夫だっけ、と道路の脇に寄ってスマホを取り出した。
学生の身分にはいささかハードルの高いお値段だったはずだ。思い付きに友だちを呼び出すのも気が引けるし、悲しいかな、さすがにその価格帯では急に呼んだんだから私が奢るよとも言えない。
お一人様、予約なしでも行けるらしい、と確認できて顔を上げたところで、ふと、一ブロック先のファーストフード店の角で、妙な動きをしている人物が目に入った。
やや細身で、手足を持て余したような体型とくせ毛の頭に、見覚えがある気がする。
身を隠しながら、角の向こうを伺っているらしい。背後から見ると、ちょっとユーモラスに見えてしまうのがまた気の毒だ。
近づくと、思った通りだった。クドリャフカだ。
「どうしたの、工藤君。風邪もう大丈夫?」
おわっ、と細身の体に似合わない低めの叫び声を上げて、残念な後輩は文字通り軽く飛び上がって振り向いた。
「ちょ、……安西さん?! なんでここに……って、待ってください。今そっち側に出ないで」
「何なの一体」
必死な様子の工藤君につられて、つい声を低めてしまう。
「いやいや、安西さんは向こう行ってくださいよ。ここは通れません」
「意味わかんない。私、この先のヘルメスホテルに用があるんだけど」
「えっと、定休日みたいですよ」
「そんなわけあるか。あんな大きなホテルに定休日は普通ないでしょ」
明らかに挙動がおかしい。何かを隠している風情だ。
ダメですって、と制止するクドリャフカを振り切って、私は角からちょっと頭をだして先をのぞいてみた。
(あれ……え、瀬戸先輩?)
路肩のパーキングロットに停車している車の横に立っている背の高い青年。週に何度も顔を合わせるのだ、見まちがえるはずもない。こんなタイミングで、街中で二人も知り合いに出会うなんて、すごい偶然だ。
瀬戸先輩、というより、セドリック団長、と言った方がしっくりきそうだった。普段、バイトの行き帰りに目にするラフなTシャツとデニムスタイルとはうって変わって、ばしっとスーツを着こなしている。典型的な就活スタイルというには、少しだけゆるめに結ばれているネクタイに、窮屈そうに人差し指を引っかけて、少し眉をひそめている姿は、正直、めちゃくちゃカッコよかった。
いやいや。そんなことを言っている場合じゃない。
「何よ。瀬戸先輩じゃん。こそこそしてないで、挨拶くらいすれば? お店でもすごく心配してたよ」
気まずいなら私も一緒に行ってあげるからさ、と袖を引っ張ると、思いがけず頑強な抵抗に出会った。
「今はダメです」
ふと気がついた。大きな白い使い捨てマスク越しの工藤君の声は、気の毒なほどガサガサだった。風邪というのも、あながち、仮病でもなかったらしい。
バイトに対する気まずさや不安で、ちょっとした身体の不調をことさらに大げさに言って休む理由に使っているのかと、どこかで下世話に勘ぐっていた自分に気がついて、申し訳なくなった。
「風邪だったんでしょ。しょうがないじゃん。もう出てこられるくらい回復してきたんなら、挨拶ぐらいでうつったりしないよ」
そう言って、改めて団長の方を振り返った私は、はっとした。
騎士スタイルの仕草で膝を屈めた団長が、開いた車のドアに向かってすっと手を差し出した。
車の後部座席から下りてきた、長身の美女。サングラスをかけているので実際には顔だちはよくわからないが、とにかく美女っぽいスタイルで、大人っぽいグレーのスーツを着こなし、ハイヒールをはいている。
エスコートを受け慣れている優雅な仕草で、美女は片手を団長に預け、団長は流れるような仕草で美女の書類かばんを受け取る。そして二人は連れだってヘルメスホテルへと向かっていった。
「えーっ! あれ、どういうこと?」
目の前が真っ暗になりそうだ。倒れないようにファーストフード店のウインドウに手をついて、私は再び、工藤君を振り返った。
「だから、行くなって言ったじゃないですか。……見ちゃったんなら、しょうがないですよね。毒を食らわば皿までと言いますし、とりあえず、確かめられるだけ確かめてみませんか?」
「え、ちょっと待って。何で? 私も?」
ちょっと不器用でふわふわしたところがあると思っていた工藤君にしては、思いもよらないほど決断が早かった。なぜか彼は私を引っ張るようにして、二人の後を追跡し始めた。