4 人見知りの理由
「アン――安西はさ」
閉店後の清掃まですべて終了して駅に向かう道すがら、軽く肩をすくめて、ずれてきたリュックサックをゆすりあげながら、団長――瀬戸先輩は言った。さすがに、騎士姿から普段着に戻ると、団長と呼ぶのには違和感がある。
帰り道は、わりと二人きりになることが多かった。
騎士役のホールスタッフはマイペースな人が多くて、当番になっているゴミ出しやホール清掃が終わるとさっさと帰ってしまう。最終チェックは、オープン当初からの流れでなんとなく、厨房補助とホールリーダーの仕事になってしまっていた。もちろん、その分、長く勤務時間にカウントしてもらえて給料が増えるので、私としては異存がない。
「何で、接客苦手なの?」
「どうしてですか?」
「あ、ごめん。立ち入ったことだから、言わなくてもいいんだけど。さっき、工藤がショック受けてたって話してくれただろ。ちょっと意外でさ。あいつ割と前向きって言うか、ちょっとした失敗ではめげないようなタイプだと思ってここのバイトに勧誘したから、なんか、俺全然、わかってなかったのかなあ、悪いことしたかなと思ってさ。俺自身はそんなに苦手に感じたことがなかったから、どういう気持ちなのか、想像もつかなくて」
心底、途方にくれたようにぼやくその姿が、思いがけず身近に感じられて、真剣に答えようと私もうなった。
「なんで――うーん。私の場合は、多分、工藤君の感じてるものとはきっと全然違うと思います。参考になるかわかりませんけど」
私が言葉を切った隙間になだれこむように、夜風はひんやり冷たく頰をなでていく。
駅へ向かう近道になっている川沿いの道は、歩道がきちんと整備されていて交差点が少ないので歩きやすい。等間隔にずっと駅の向こうまで植えられた桜とその合間合間におかれたベンチのせいで、花の盛りにはにぎやかに混みあうが、今は時折追い越していく車がいる以外、静かだった。
花が散った後ようやく芽吹き出した青葉のすがすがしい香りに混ざって、湿った土の匂いもあたりに漂ってくる。柵があって川べりには降りられないが、道路よりずっと低い位置を流れている小川のかすかなせせらぎやカエルの声も聞こえ、都会らしくないのどかさが気に入っている場所だった。
少し時間をかけて考えをまとめてから、私は説明した。
「私、人前で声を出すのが苦手なんです。慣れてきた人とか、少人数とかならいいんですけど、声を張るのが苦手というか」
「緊張するとか、そういう感じ?」
「まあ、それもあるんですけど。自分の声が好きじゃないって言うか」
「声?」
「見た目より低いじゃないですか」
童顔、低身長の見た目にそぐわず、少し低めのハスキーボイス。といえば聞こえはいいのだが。
「ヤギみたい、って、すごく笑われたことがあるんです。……ちょうど中学生になるとき、引っ越ししたんですよ。それまで、幼稚園に上がる前から顔なじみだったような子たちが半数以上の小学校にいたせいで、自分の声がちょっと変わってるとか気にしたことなかったんですけど、初日の挨拶で、声でびっくりされちゃって」
以来、ヤギも自分の声も嫌いになった。ヤギに罪はないので、気の毒な話だとは思う。
「笑うとかひどいじゃん。変わってるって思ったことないけどな」
瀬戸先輩はまるで自分が侮辱されたようにむっとした声を上げた。彼は普段から、明るくて竹を割ったようにからっとしていて、正義感が強い。まさに『騎士団長』を地で行く性格なのだ。確かに、ああいう場面ではクラスの中心に立って「やめろよ」と言ってくれそうなタイプである。
「まあ独特なのは事実ですし。合唱とかすると、全然うまく混ざらないんで、ヤバいですよ。高校からは、芸術科目が選択制になって、音楽を選ばなくてよくなったんでほっとしました」
「そっか。何か、聞いちゃってごめん」
「いえ。気にしないでください」
いくら、中学生になりたての私にとってなかなかハードな『引っ越しの洗礼』だったとはいえ、今さらである。人前で声を出すのが苦手なのは、なんとなく癖のようになってしまったというだけだ。理性では、別に声が多少個性的だからって、人に迷惑をかけているわけでもないし、大した問題ではない、ということくらいわかっている。その後、普通に友だちとかもできたし。
ただ、ちょっとした苦手意識が残っただけ、なのだ。
その苦手意識が、いざという場面でとんでもなく足を引っ張ってくる現実には、そろそろ直面しないといけないのだけれど。
むしろ、気まずそうな顔になった瀬戸先輩に申し訳なくて、私は話題を戻した。
「……工藤君は、なんかそういうのとは違いそうじゃないですか? 本人、乗り気だったんでしょう?」
採用の詳しい経緯や面接の様子は知らないけれど、私みたいに、最初から裏方希望ではなかったはずだ。他の応募者と同様、時給もいいし騎士枠希望だと聞いた気がする。
「うん。普通のウェイターよりは気を付けることも、お客様と会話する機会も多いから、それなりに向いてそうだと思った後輩にしか声を掛けないようにしてるし、声をかけたときには喜んでたように見えたんだけどなあ」
「うーん。そういえば、先輩は? そもそもなんでこのバイトにしたんですか。……やっぱり騎士になりたかったからですか? それとも家業とか」
後半、少し茶化すと、ぎょっとしたように先輩は私を見た。
ん? 冗談、通じてなかった?
いつもの打てば響くようにジョークを拾ってくれる先輩とは少し様子が違った。工藤君のことで頭がいっぱいだったのだろうか。
「先祖代々、騎士の家系って言われても驚きませんけど。……いや、驚くか」
私が分かりやすいように声のトーンを上げて、重ねてふざけると、半呼吸だけ遅れて彼は笑った。
「どんな志望動機だよ。騎士の騎の字も身近じゃない生活だったって」
「じゃあ、あの完璧な騎士マナーはいつ身に付けたんです? やってみたら自然とできてたとか、マンガのチート主人公みたいなこと言わないでくださいね」
オープニングスタッフで、しかも一番飲み込みが早かったということもあって、わりとすぐに瀬戸先輩は騎士団長、つまりホール係のバイトのまとめ役になった。以来、セドリック団長はずっと騎士たちの指導役だ。教え方は丁寧で根気強く、わかりやすい。私が、自分がホールに出ない立場なのに、新人騎士の所作に多少なりとも助言できるのは、そのセドリック団長の所作や新人指導を見続けてきたからに過ぎない。
「あんなのがいつのまにかできるようになってる、なんて、そんなわけあるか」
彼はむっとしたように腕を組んだ。
「仕事が決まってから、めちゃくちゃ研究したに決まってるだろ」
「え、研究って? 何で? 資料とかあるなら教えてくださいよ」
お店で使える騎士のマナーの研究なんて、どこにお手本があるんだろう。
そもそも、『タラリア騎士団の訓練舎』は現実の騎士団をモデルにしたお店ではない。
中世ヨーロッパに実在した騎士団は、教会が組織した修道士の集団で、清貧・修道を主旨に掲げ、聖地の奪還を目指す軍事組織だという。それでは、さすがにカフェの営業と相容れなさすぎるので、オーナーが採用したのは、ファンタジーのアニメやゲームによくある、封建領主の直属組織として有事の都市防衛と平時の治安維持を担う武人集団、というふんわりした設定だった。特定のフィクションをモデルに決めているわけでもないし、教科書にできるような題材があるとは思ってもみなかった。ちょうど的を射たようなテーマの研究書とかがあるんだろうか。
世界観、と、しょっちゅう騎士の皆さんにお小言を言う私にしたって、厳密な基準があるわけではなかった。この際、しっかり勉強しておくのもいいかもしれない。
そう勢い込んだのに、ぷいっと彼は顔を背けた。
「……内緒」
「ちょ、何でですかー!」
くそう。そういう仕草はちょっとかわいい。
「まあ、どうしてこのバイトかってなると、大学に通いながらじゃ、そもそも選り好みできるほどバイトの種類がないってのもあるけど。オープニングから関われるのって、勉強というか社会経験になるかなって思ってさ」
強引に話を戻したのがありありとわかる口調で、先輩は早口で言った。『研究』の話はうっかり口が滑ってしまっただけで、言いたくなかったんだな、とわかって、ついにやにやしてしまいそうになる。何でも完璧にできるように見える団長にも、意外に、弱点っぽいものもあるのかもしれない。
「社会経験ですか」
「就職にも役に立つと思ったし」
何気なく飛んできた思いがけない一言に、私はどきっとした。
そうだ。三年生の瀬戸先輩は、もうそろそろ就職活動が本格的になってくるはずだ。忙しくなったら、シフトも減らしていかなければいけないんだろうか。
先輩との会話で、ちょっと浮かれていた自分の心が、さあっと冷たい水を掛けられたようにしぼんでいくのが分かる。
当然のことなのに、今まで考えてみようともしなかった。ずきんと心臓の辺りが痛い。
まだまだ、しばらくこのままでいられると思っていたのに。
私は隣に気づかれないように小さくため息をついた。