21 エピローグ さそりの心臓
私が手にした緑色と淡い紫の小さな花束からは、爽やかで甘い香りが立ち上り続けている。
反対の手は先輩につかまえられたままで、私のバッグは先輩のと一緒にまとめられて、先輩の反対側の肩。
こうやってさらっとエスコートできちゃうのは、やっぱりずるいなあと思う。こっちは急展開にまだまだ心臓が追いつかないのに。
ホタルを探しながら、ゆっくり駅の方に向かって歩く道すがら、瀬戸先輩は小さく笑った。
「それにしてもさ、アンソニー王子はすごかったな」
「またからかう気でしょ。その手には乗りません」
「そんなことないけど。ほら、俺ずっと騎士の役回りだろ。だから今日、あの時」
先輩はちょっと言葉を切って、暗い夜空に広がる桜の枝ぶりを見上げた。
「スムージーの瓶が割れちゃったとき、アンソニーが駆けつけてくれたじゃん。あれ、初めての体験だったんだよね」
「どういう意味ですか?」
「騎士に助けてもらうのって、こんな感じなんだって。即、こぼれたやつに対応して、俺がフリーズしてたら怒ったふりしてネッククロスまで外してくれて」
ふふ、とまた笑う。
「あれで惚れなかったら嘘だろ。その前からもちろん惚れてたけどさ」
「軽く言いますねえ」
思わずじとっと横目でにらんでしまう。
「軽くない軽くない。っていうか、ずっと好きだったしアピールしてたつもりなんだけど、琴寧、完全に塩対応だったから」
「塩? そんなことしましたっけ」
「したよー。すぐ、世界観! って怒るし。そうじゃなければ、見事にスルーするし」
「そりゃバイト中は、ふざけてたらダメでしょ」
私はふきだした。あれ、アピールだったのか。それは全然気がつかなかった。
「私がおろおろするの面白がってからかってると思ってたので、都度都度、逆襲してました」
「まあ、気づいていないのはわかってた。そうやって噛みついてくるところがまたかわいいんで、しつこくやってたところはあるけど」
エリカさんとか工藤には結構怒られたんだよなあ、と先輩は頭をかいた。
「え、ちょっと待ってください。なんで? なんでエリカさんやクドリャフカが怒るの?」
「エリカさんは、いい加減もう見てらんないし、新人さんに気づかれたら示しがつかないから、勤務中にちょっかいだすのやめてちゃんと白黒つけなさいって」
ド正論だった。直球ど真ん中じゃん。ガチで怒られてるやつ。ぶわっと頬に血がのぼる。
「エリカさんには、そういうの言ってたんですか? 誰が好きとか」
「言ってないよ。何も言ってないのに突然、当てられた。勘って怖いな、って言ったら、クロードと二人がかりで、気づかんわけがないでしょう! ってさらに怒られた。超絶理不尽」
「……クロード君まで」
嘘だ。次のシフト、絶対、めちゃくちゃ入るの恥ずかしい。
「じゃあクドリャフカは何なんですか」
聞くのはものすごく気が進まないけれど、聞かないでいるのはもっと怖い。
「工藤からは、あののろけ方だったら絶対付き合ってると思うじゃないですか、僕、見当違いで変なこと言って危うく安西さんに嫌われるところだったんですけどどうしてくれるんですか?! って詰め寄られた」
「いつ」
「カレー食べた日、あとで工藤のところに見舞いに寄ったときに」
「うーそーでーしょー……」
知らぬは私ばかりなり、ということなのか。
「大体、工藤君がそれだけ誤解するようなことって、何を言ったんですか?」
「言ってない。言ってないってば。ただ、研修の後で工藤が、厨房補助の安西さんやけに口出してきますよね、なんてぶつぶつ言ってたから、アンがどれだけちゃんとしててフォローが丁寧で、みんな助かってるかってことを説明しただけで」
話を聞く工藤君の耳にも、瀬戸先輩の『説明』にもそれぞれ、少々誤解を助長するような行き過ぎがあったということなのだろう。聞くだけ無駄だし、これ以上聞くまい。
「……いや、言いたかったんだ。ほんとは、ずっと、ちゃんと。周りからごちゃごちゃ言われる前に」
つないだ手に少し力がこもる。
「でも、改めて自分を振り返った時に、棚上げにしてることがすごく多いって愕然として。ネクタイのこととか進路のこととか、周りに叔母のことずっと黙ってることとか。そういう一つ一つに、まがりなりにでも自分の中でケリをつけて、できるところから少しずつ先に進んでからじゃないと、とてもじゃないけど、……何て言えばいいんだろう、中途半端な気がして。色々そのまま、何も変わろうとしないままだったら、自分で自分がズルい気がして」
結果としてめちゃくちゃ助けてもらった日に言うことになって、なんだかなあって感じだけど、と彼は笑った。
「何も努力しないうちから言ったら違う、ズルい、って思ったのは今でも間違ってたとは思わない。だけど、今日……だからといって、何かが完璧にできていなくてもいいんだなって、思った結果に今たどり着いていなかったとしても、それでもいいんだって思ったんだ」
話が少し飛躍している気がして、私は首を傾げた。
「琴寧がさっき言ってくれただろ。俺はとにかく今日を走りとおしたって」
「言いました」
「理想を持つのはすごく大事なことだし、いつかそうなりたい姿を思い描くのは大事なんだけど、生きてる限り、一つ何かを叶えたら、そこで、もっと叶えたい何かが出てきたり、何かを実現したことで、かえって自分に足りてなかったことが見えてきたりすることもあるだろうし。叶えられなかった理想のその先にも、また何か新しい地平があるのかもしれないし」
先輩はまた、桜の枝を見上げた。その枝の先に、蛍の光よりももっともっと小さくて、夏の熱気に揺らいで脈打つようにまたたくけれど、消えない赤い光が見えた。
夜空に大きなTを描いて並ぶさそり座の中でも、ひときわ濃い赤に輝く中央の光。
あれはさそりの心臓だ、と、小さいころ、誰かに教わったのをふと思い出した。
もうさっきからずっと、私の頬はさそりの心臓くらい真っ赤なはずだ。夜闇が色を隠してくれていると思うけれど。
「だから、いずれどうなりたいと思っているかっていうのと同じくらい、うまくいかないことがあってもヘタレなとこがあっても、今日をどう走ったかをきちんと見つめているのも大事なんじゃないかなって。他人事だとえらそうにそういうこと言ってた時もあるんだけど、あらためて自分事として受け止められたっていうか。だから、全然うまくいかなかったところもあるけど、それでも今日やっぱり言おう、と思って。……って、大丈夫? 俺、すごい情けない、恥ずかしいこと言ってない今?」
「いや、そこで揺らがないでくださいよ」
すごくかっこいいこと言ってたと思うのに、次の瞬間、子どもみたいに照れたり不安がったりするの、何なんだ。
かわいすぎるじゃん。こんなの、絶対、……そう。惚れるしかないやつ。
「じゃあ、私もすごく恥ずかしい、今まで言ってなかったこと一つ言ったら、おあいこですよね? そうやってぐるぐるするの、やめられます?」
「え」
ありったけの勇気を振り絞ってでも、一歩先に進めば、私にだって見える景色が変わるはずだ。そうやってきっと、お互いにひっぱったり背中を押したりして、一人では辿りつけなかったそれぞれの道の先に進んでいくんだろう。
私はつないでいた手をぎゅっとひっぱった。驚いて、少し私の方に身を傾けた先輩の耳元に、思い切り背伸びをして顔を近づける。
「私も、ずっと言えてなかったけど、すきです。そうじゃなかったら、あんなに長いこと、二人きりの練習、付き合えません」
それだけじゃ信じてもらえないかもしれない、と思って、そのままえいっと頬に唇を寄せた。
かすめるだけで心臓がばくばく言ってる。
ずっと遠くの星から私の心臓が見えたとしても、あのさそりの心臓みたいに、どきどきが瞬きになってちかちか見えるかもしれない、と思うくらい激しい鼓動。ふさわしい色がつくなら、きっと真っ赤だ。
でも、それだけの勇気を振り絞った甲斐はあった。不意打ちに驚いて、呆然と私を見返すセドリック団長の顔なんて、そうそう拝めるもんじゃない。
ただ、立て直しの早さに掛けては人後に落ちないのが団長だった。
「じゃあ、こういうことしても怒らない?」
次の瞬間、つないでいた手がするりとほどけた。彼の空いた手が私の頬に触れる。唇が一瞬重なった瞬間、びっくりしたのと慣れてなさ過ぎるのとで、私は思わず息を止めてしまった。慌てて身体を引いて、思い切り酸素を取り込む。
「お、怒らないですけど、ゆっくりで! ゆっくりでお願いします」
すう、と蛍がからかうように目の前を横切った。
目が合って、どちらからともなく、私たちは笑った。
夏の盛りは、始まったばかりだ。
ラストまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
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