20 ポーションの小瓶
ようやく私の呼吸が普通のペースに戻ったころ、彼は軽く開いた膝に肘をおいて、前方に視線を投げたまま、ぼそっと言った。
「アンにもあんなに時間と労力を割いてもらってたのに、変な言い方になった俺が悪かった。ごめん」
小さく息を吐き出して、ふっと笑顔になる。
「そうじゃなくて本当は、お礼をちゃんと言いたくて」
よかったら受け取って、と彼が差し出してくれたのは、シンプルな小瓶に入った液体だった。釣り込まれるように受け取ってしまったガラスの容器の中で、少し重そうなとろみのある液体がゆらりと揺れた。街灯の明かりでは色あいはよくわからないけれど、透明ではなく、琥珀色くらいの濃さの色がついているようだった。
「ポーションメニューを工藤に任せてたのは、その時には俺はこっちを作ってたから」
「……あの、これ」
「シロップ。お茶に入れたり、炭酸で割ったりして飲むやつ。<ル・ミディ>で作り方とアドバイスを聞いて、リラックスできるハーブと、喉にいいハーブと蜂蜜を組み合わせた」
「喉にいい、か。すごいですね。予知能力みたい。私、今日一日で、今までの人生で三年分くらいの大きな声、使った気がします」
私も微笑んだ。今日私がホール係に立候補したのは偶然の流れだったから、もちろん、先輩がそれを予期できたわけはない。
それにしても、すごく素敵な偶然だと思う。
「勘違いしないでほしいんだけど」
私は黙ってうなずいた。
はい、しません。これは誰にでも親切で気遣いができる瀬戸先輩が、私を練習に付き合わせたことに対する爽やかなお礼の仕方であって、何か特別な意味があるわけじゃない。
「あーもう、どう言えばいいのかよくわかんないんだけど。声が出せないって悩んでた安西に対して、俺が何かえらそうなことが言える立場じゃないのはわかってる。上から目線で言ってるつもりじゃないから、そこを誤解しないでほしいんだ。実際、今日は本気ですごかったし」
先輩はわしゃわしゃと自分の髪をひっかきまわした。
「前、安西、自分の声が好きじゃないって言ってただろ。でも俺はずっと、すごく好きで、安西の声。どこにいてもすぐわかるし、聞いてると落ち着くっていうか。だから、その話を聞いたとき、それでも大事にしてほしいなって勝手に思ってたんだけど、ちょうどそのころに偶然、あの店を見つけたんだ」
先輩は、神経質に手の中で何度かペットボトルを持ち替えた。
「でも、ネクタイの件で、とてもじゃないけどそんな話できなくなっちゃってさ。それからずっと練習に付き合ってもらってたわけだけど、俺としては、安西が安西の声でそこでしゃべってくれてるの、すごい助かったんだよ。ちょっと意識がふわっとしても、現実に戻ってこられたっていうか。実際には話してなくて、ただそこにいてくれてるだけの時でも、安西がいるって思えば安心だ、っていうのがあった。それは、キリのいいところでちゃんと伝えたいと思ってた」
ふわりと湿った風が動いて、かすかに川の水の匂いがした。私の喉は、ぐっとなにか塊がつまったみたいになって、うなずくことしかできなかった。
「安西の声とか、ただそこにいてくれてることとか、それだけで助かってた人間がいるってこと、わかってくれたらいいなと思って。めちゃくちゃ世話になったから、俺なりのポーションってことで、お礼になればいいなと」
「……我ながら変な声だってずっと思ってきましたけど、これがかえってお役に立てたならよかったです。今日も、お客様が『思春期の少年アルトボイス完璧』ってほめてくれたんですよ。役に立つ場面があったってわかったから、ちょっとは前向きになれるかな」
私は必死に言葉を探して言った。嘘じゃないけど、笑ってみせるけれど、喉に詰まったままの塊はちくちくしたとげだらけのボールみたいになって、ひどく痛んだ。
先輩の勘違いしないでくれっていうのはもちろん、上から目線でえらそうにほめたりアドバイスしたりしたいわけじゃない、っていう意味だ。それぞれに乗り越えたい困りごとがあるという意味で、私も先輩も対等の仲間だよ、という、先輩なりの心遣いだ。
でもそれとは関係なく……その言い方は反則だ。『声が好き』って、別に特別な意味じゃないと思う。単に友達として励ましてくれてるだけ。だって、誰にでも親切で面倒見のいい瀬戸先輩だから。
それが分かっているのに、今日の先輩は、全力で勘違いしたくなる。
地味で弱気で、大人数の場面になると言ってることさえしょっちゅう聞き返されてしまう私が、誰にでも優しくて明るくて、みんなから頼られて、きらきらしてる瀬戸先輩にとって、それでも少しは『特別な』何かになれるんじゃないかっていう、びっくりするほど大それた勘違いをしたくなってしまう。
「こういうこと言おうと思ってたから、今日はちゃんと決めようと思ってたのに、最後の最後で自分の方がちょっと上手くいかなかったのがカッコ悪いなと思っちゃって、自意識過剰だよなあ。自分のしたことも安西の協力も、価値を下げるつもりはなかったんだけど」
「カッコ悪くないですよ」
街灯の下では、物の色なんてほとんどわからない。だから、私の頬がどんなに赤くなってるかなんて、バレない。そう信じて私は言った。
「私が今日、ホールやるって手を挙げられたのも、スムージーの件で前に出て対応できたのも、瀬戸先輩がこれまで本気で自分に向き合って頑張ってるの、見てきたからです。だからこそ、せっかくここを目指して頑張ってきた今日という日を楽しく終われるように、私も全力を出せるところまで出してみたいって思いました。隠してもよかったはずのスイカのこと、共有してくれたのも嬉しかった。だからこそ、私が何とかしなきゃって思えたんです。私はいっぱい、エネルギーもらってます」
「そっか」
すとん、とシンプルに彼はうなずいて、手に持っていたお茶の残り半分くらいを一気に飲み干した。つられて私もまた、甘い炭酸を少し飲んだ。喉の奥のとげの塊をわずかずつでも溶かしたように、ぴりぴり、ぱちぱちと冷たい液体が滑り落ちていく。
なんとなく黙って川の方を眺めていると、ふいに、草むらの上を横切るごく小さな光が見えた。
「あ、先輩、あれ! 見えました?」
私は思わず立ち上がった。川沿いの柵に駆け寄る。手すりほどの高さの柵に手をついてぐっと覗き込むようにすると、雑草が茂る急斜面のずっと下にある水面が見えた。その川べりで、つい先ほど私の目を捉えた冷たいレモン色の光がすうっと明滅して向こう岸の草むらに消えていった。
「ホタル?」
私より一呼吸遅れて隣にやってきた先輩にも、辛うじて見えたらしかった。
目を凝らすと、さらにもう少し先にも一つ、二つと、小さな光が生い茂る草の中に見つかった。
「上流の方に出るって噂は聞いてましたけど、こんな町場のほうまで来るんだ。迷ってきちゃったのかなあ」
「いや、複数いるから、迷いホタルってこともないんじゃないか。浄水場の機能が上がってるらしいから、増えてるのかもしれないな」
「……きれいですね」
うん、と先輩はうなずいた。
ふと気がついて私は内心、焦った。これはちょっと、あれじゃないか。『月がきれいですね』みたいな。それをあなたと見られたことが自分にとっては特別な意味があるんです。あなたのことが好きです。そういう含みがある、とさる文豪が言った、というのは結構有名なエピソードだ。
いや、私の心情としては間違ってない。間違ってないけど、それはやっぱり、要らぬ圧力というか、押し付けがましく響いてしまうんじゃないのか。
先輩はただ、うんと言ってくれたんだから、それで受け流せば終わりなんだけれど。
あー、と小さくうめいて、瀬戸先輩は柵に肘をついて、顔を両手で覆った。
え。ちょっと待って。今、恥ずかしさのあまり、あーってうめいて、顔を隠してしまいたいのは私の方だ。訳がわからない。
奇妙な偶然の一致に当惑している私に、指のすきま越しにちらりと視線を投げて、先輩はさらに訳のわからないことを呟いた。
「どうしよう。すごい嬉しくて、このまま、ありがとうってきれいに今日を終わらせて、解散! ってしたい気持ちもあるんだけど……でも、ごめん。今、言わないとめちゃくちゃ後悔しそうなことがあって」
「……?」
さっき、ポーションの小瓶を取り出した紙袋から、手のひらに少し余るほどの大きさの何かを取り出して、彼は私の前に片膝をついた。
いやいやいや。ここで唐突に騎士仕草? なにゆえ?
うろたえる私に、彼が差し出したのは、セロハンにくるまれた小さな花束だった。
葉物が中心のようだけれど、小さくて可憐な花が葉に埋もれるように控えめに咲いていて、全体からふわりといい香りがする。
「これって」
「ローズマリーとラベンダー。花、どんなのが好きかわからなかったから、俺が好きな香りのものを選んだ。<ル・ミディ>のだから、料理とか紅茶に入れてもいいから、無駄にはならないかなって」
彼は照れくさそうに小さく頬をかいた。
「さっきのポーションはお礼で、こっちは別。今回のことを通して、安西が隣にいてくれるのがどれだけ力になったか、自分が安西の隣にいて、困ったときには力になりたいって思ってるか、身にしみた。特別な相手として見てほしいと思っているんだけど、お付き合いの申し込みを受けてもらえますか」
そこまで一気に言ってから、先輩はくしゃっと少年のように笑った。
「緊張しすぎて、どこで噛むかと思った。最後まで言えてよかった」
「その言い方はずるいですよ」
つられて私も笑ってしまった。
「噛むのは私の専売特許じゃないんですか」
でも、正直、頭は必死で、今の急展開についていくのに精一杯だった。
え。特別って。どういうこと? お付き合いって。
えええ、ちょっと待って。
私、疲れすぎてて、願望丸出しのすごい恥ずかしい聞き間違いをしてるんじゃないだろうか。
「正直、好きな子が自分のために泣いて怒ってくれた時点で、めちゃくちゃ嬉しくて、自惚れちゃいそうだったんだけど。でも、安西は優しいから、俺の思い込みだったらだめだし。もしそうなら、勘違いだってきちんと怒って、断ってほしい。店では気まずくならないように全力でちゃんとするから」
真顔で重ねて尋ねられた。視線がぶつかる。
にらんでるんじゃないかと思うくらい、強い力が込められた視線だった。でもそうじゃないことくらい、わかる。隣で見てきたんだから。本気、というやつなんだ。
私は再びぐっとつまりそうになってしまった喉から、必死で声を押し出した。
「お受けします。こちらこそ、よろしくお願いします」
今日一番、出すのに緊張した声だったと思う。これを乗り越えたら、怖いものなんて何もない気がした。
花束を受け取ろうと差し伸べた手は、思いがけず捉えられた。
手の甲に小さなキスを落としてから、彼は私を見上げて晴れやかに微笑んだ。
「全力で守らせてください。アンじゃなくて、名前の方で呼びかける栄誉を許していただけますか」
だから、そこで騎士力無双するの、本当にずるいと思う。手を取るのもキスをするのも、お店では絶対にNG事項だ。つまり、これは私だけの騎士団長様っていうことなのだ。
声も出せずにただうなずいた私の額に、自分の額をこつんとくっつけて、彼は言った。
「じゃあ、琴寧。……好きだよ」
こういうところ。これを、ノータイムで素でやれるこの人に、私は絶対敵わない気がする。
「あの。ゆっくりで。――ゆっくりでお願いします!」
必死に、半ばひっくりかえった声を押し出した私に、彼は吹き出した。
ここまでお付き合いくださってありがとうございます!
次回がエピローグ、最終話となります。