2 大失敗!
セドリック団長の担当テーブルへ運ぶセットが仕上がって、作業がひと段落したところで、私はふと気になってホールを見渡した。
今週デビューの新人見習い騎士がいたはずだ。名前はたしか、クドリャフカ。
ちょうど、担当テーブルに来店客があって、待機場所から出ていくところだった。
「頑張ってね」
声を掛けると、ぎろっとにらまれてしまった。緊張しているんだろうか。変なタイミングで声をかけて悪いことをしたかもしれない。
彼は少しぎこちない動きでマントをひるがえしながら、うら若いご令嬢を二人、暖炉横のウィングチェアの席にエスコートしていった。
(あ、マントさばき)
見習い騎士が最初に苦戦するポイントだ。肩から流した長い布を、室内の調度に引っかけたりしないように、それでいて爽やかに見栄えがするように扱うのにはそれなりにコツがいる。
クドリャフカは、初めてのお客様に笑顔で対応しようと全身に妙に力が入っているように見えた。
(まずいな、後でもう一度、所作の確認を入れた方がいいかも)
私が思う間もなく、身体の向きを変えようとしたクドリャフカが大きく揺すった肩に反応して、マントがはためいた。
弧を描いた重量感のある布が、ちょうど傍らにあったテーブルの上を薙ぐ格好になったのがまずかった。たまたまそこに、片付けられるのを待っていた茶器があったのは、もう、不運としかいいようがない。石造り風の床で、磁器のティーポット、ガラスの砂糖壺とクリームピッチャーが、かしゃん、と場違いなほど華やかな音を立てた。
「きゃっ」
(まずい)
驚いたご令嬢の悲鳴を聞くより早く、私はお手拭きを数本と使い捨ての紙雑巾、小さなバケツにまとめた緊急掃除セットをひっつかむと、現場に駆け付けた。
さっと目礼すると、床に散らばったガラスと磁器の破片をハンドモップでかき集めはじめる。
複雑なカットガラス風の砂糖壺も、騎士団の紋章であるタラリアが染めつけられたティーポットも、見るも無残に砕け散っていた。タラリアというのは、空を駆ける伝令神の象徴である、かかとに羽の生えたサンダルを指す、という豆知識は、入店直後に全スタッフが暗記させられる基本設定の一つだ。
ご令嬢がたが居心地悪そうに身じろぎし、お互いに視線をかわすのを見て、私はクドリャフカをこっそり小突いて合図を送った。
(早く、お席に)
だが、当の新人騎士は、想定外の事態に呆然として固まっている。
(これ以上黙ったままなのはだめだって……!)
お客様に空白の時間を与えてはならない。せっかくの非日常体験なのに、素に戻ってしまう。
まだ、クドリャフカは動けないでいる。私がやるしかないのか。
「あ、あの、しっ……失礼イしゅました!」
ご令嬢に話しかけようとして、私は盛大に噛んだ。文字通り、頬の内側の粘膜を。痛いやら、恥ずかしさで熱いやら、頬は大惨事だ。慌てて顔を伏せた。
クドリャフカのフォローをしなければいけなかったのに、これでは台無しだ。
私は彼だけに聞こえる程度の小声に切り替えて、促した。
「まずお二人をお席に。ここはやるから」
手もとの床を指さすと、顔面蒼白になりながら彼はうなずいた。緊張のあまり、くせ毛の毛先がふるふると震えている。
「こっちは大丈夫だから、最後まで集中して」
私が新人騎士にささやくのと、明るい声がかかるのがほぼ同時だった。
「これは、大変失礼しました! お怪我はございませんか。クドリャフカ、お席にお連れして、まずはお召し物をご確認いただいて」
団長だ。彼がフォローに入ってくれたなら、もう安心だ。
私はほっとして、耳だけは彼らのやり取りに注意を向けつつ、器の破片の片付けに専念した。
「つい先日、騎士団の仕事を始めたばかりの見習いなんです。指導不行き届きで申し訳ありません」
団長が大きく頭を下げたのをきっかけに、クドリャフカもすみませんでした、と頭を下げた気配がした。
「大丈夫です。そうか、新人さんなんですねー!」
「任務、お疲れ様です!」
ご令嬢がたも、緊迫した空気に戸惑っていただけだったらしい。とたんに和やかに会話が弾みだして、クドリャフカの肩の力もわずかに抜けたようだった。
床の上では、磁器とガラスの破片に、器に残っていた紅茶と砂糖、クリームが混ざりあってべとべとに広がってしまっている。扱いづらい汚れをどうにかかき集めて、紙雑巾で包み込み、捨てていく作業は、なかなかに厄介だ。
それでも、団長がフォローに入ってくれたおかげで、場の空気は一変して、床の汚れなど些末な問題と感じられるようになった。とにもかくにも、破片がなくなり、通っても靴の裏が汚れてしまわない程度に拭き上げたところで私は一旦片づけを切り上げた。
(閉店後の掃除で念入りに磨くように、担当の子に伝えなくちゃ)
クドリャフカのお客様のオーダーが通る前に、急いで厨房に戻ろうとしたところで、後ろからぽんと肩を叩かれた。
「アン。フォローありがと。助かった」
団長だ。相変わらず、爽やかすぎる笑顔にそわそわしてしまう。後ろから急に至近距離なのも、お客様に聞こえないようにちょっと囁き声なのも、完全に反則だと思う。
「片付けただけですって。私こそ、すみません。出しゃばって、かえってクドリャフカを混乱させたかも」
騎士でもないのに、お客様に話しかけるなんて大それたことをしたからいけなかったのだ。黙って、任せておけばよかったのかも。落ち込んで目線を下げた私を、団長は少し首をかしげて覗き込むようにした。
「そんなことないよ。真っ先に駆けつけてくれたろ。ああいうとき、一人じゃないっていうの、すごく大事なんだ。俺もすぐ手を離せなかったし、助かった」
肩に置いていた手を頭に置き換えて、またぽんぽんと撫でる。これは団長のくせだ。他意がないのは、これまでのバイトの付き合いで重々わかっている。私が小さくて、手を置きやすいところに頭があるからだろう。他のスタッフだったら肩を数度叩かれている。わかっているのと慣れるのは別だけど。
「あいつも完全にテンパってたな。ま、第一週に二個もいきなり茶器を割ったら、石化もするだろ」
「あ、それダメ。世界観!」
近すぎる距離にどぎまぎして、私は注意するふりでびしっと指をさしてさり気なく身を引いた。ただの言い訳ってことでもない。『フォロー』はまあ英語由来だからいいとして、『テンパる』は、もとが中国語、麻雀用語だ。大学生としては日常的に使うフレーズだとはいえ、騎士団にはふさわしくない。
「またアンに叱られちゃったなあ」
照れ笑いすると、団長は私の手から、汚れた紙ふきんと茶器の破片が入った小さいバケツを奪い取った。
「これは片付けとくから」
「え、いいですって。どうせ厨房の裏ですし」
「オーダーが入ると厨房は忙しいしさ。世界観不徹底のペナルティってことで、俺にやらせてよ。ほら、それより、クドリャフカのテーブルのオーダー、できるだけ早く仕上げてやって」
そう言われては、返す言葉がない。
「……じゃあ、お願いします」
「喜んで」
団長は芝居がかった仕草でバケツを持っていないほうの右手を胸の前に当てると、軽く右ひざを引いて身をかがめ、略式の礼をした。
様になりすぎて、目のやり場に困ってしまう。
「だから、私に騎士力を無駄遣いしてどうするんですか!」
団長は破顔すると、じゃね、と厨房の裏口へと向かう。こちらを振り向かないまま、バケツを持っていないほうの手をひらっと振って去っていく背中を見て、気がついた。
テンパる、は、わざとだ。私が凹んでいたから、励まそうとしてくれたに違いない。大げさな騎士風の仕草も、笑わせようとしてくれたのだろう。
そういうところ。そういうところが凶悪なんですけど。
時にはこんなちょっとしたハプニングもあるけれど、私はこの職場を気に入っていた。
無自覚な団長が振りまく、不意打ちの心臓への負荷を除けば、理想的な職場だ、と思う。
しかし、クドリャフカにとっては、そうでもなかったらしい。