19 帰り道
閉店作業もつつがなく終わって、ようやく、『タラリア騎士団の訓練舎』の真夏の長い一日が暮れた。
まだ簡単な事務作業が残っているというマネージャーに挨拶して、私と瀬戸先輩は店を出た。
重く湿った、ぬるい夜風がふわりと髪をなでていく。
「とにもかくにも、走り切りましたね!」
私は肩の荷が下りた心地で、少しはしゃいでいたと思う。もともと、この日を目標に先輩の練習にお付き合いしてきたのだから、達成感を感じるのは当然だけれど、それ以上に当日のハプニングが色々ありすぎた。
「終わり良ければ全てよし、ですよね」
何気なく言った自分の言葉にはっとした。
そうだ。団長は、ネッククロスありの制服で一日のシフトを走り通した。最後のアクシデントはスムージーが原因だったわけで、毎度ああいうことは起こらないだろうし、今回の件を踏まえれば対策も立てられるはずだ。
これからはきっと、団長はシフトの時間でネッククロスに慣れていくことになる。ただでさえ大学三年生の生活は忙しい。プラスアルファの練習は負担が大きすぎるし、必要ないだろう。
ああ、もう終わりなんだ。
そう思うと、ぎゅっと心臓の辺りが縮むような気がした。
喜ばしいことのはずなのに、素直に喜べない自分が悔しい。
あれを楽しかったなんて、なくなるのが寂しいなんて思うのは、先輩が重ねていた努力を考えれば、とんでもないわがままだ。
今までの生活に戻るだけ。バイトを辞めるわけですらないのに。
わかっているのに。
駅への近道、春になると淡い桜の帯がたなびいたようになる川沿いの並木道にさしかかったところだった。二か月前ここを歩いたときには、萌え出したばかりの青葉を吹き抜ける夜の風はひんやり冷たかった。
今日は、どんよりと湿ったぬるい風が、わさわさと生い茂った濃い緑の葉を微かに揺らしている。
足取りがどんどん重くなって、止まってしまった私に気がついて、瀬戸先輩は振り返った。
「どうした?」
「……すみません。ちょっと、さすがに今日は疲れちゃって」
笑顔を浮かべて言い訳した。もうちょっとだけ、今日を引き延ばしたいなんて、言えるわけもない。
「長い一日でしたね」
「そうだな。ちょっと座っていく?」
先輩が遊歩道のベンチを指してくれたのを幸いと、私はうなずいた。
「待ってて」
止める間もなく、彼は数十メートル前に通り過ぎたばかりの自動販売機でペットボトルを二本買ってきた。
「どっちがいい?」
遠慮するのも悪い気がして、私は差し出されたお茶と甘い炭酸飲料から、炭酸飲料を選んで受け取った。
「ありがとうございます」
「いや、お礼を言うのはこっちの方。本当に、助かった。ありがとう」
「……いえ」
もやもやと重い気持ちを見透かされたくなくて、私は微笑んだ。何か言ったら変な空気にしてしまいそうだった。
カエルの声が足元よりずっと下の茂みから聞こえてくる。
さっきまで中世風の異世界カフェにいたなんて、嘘みたいだった。いや、もちろん、虚構なんだけれども。
「にしても、まさか初日にここまで色々起こるのは予想外だった」
「スムージーですか? あれは悲惨な事故でしたね。大事にいたらなくてよかったです」
「……情けないよなあ」
私は、あくまで何でもないことのように明るく受け流そうとしたけれど、瀬戸先輩はため息をついて肩を落とした。
「もうちょっとできる気でいた。練習したところで、あんなアクシデントひとつでまだまだ崩れちゃうんだなって」
「どうしてそういう言い方するんですか」
私はかちんときた。思わず声がきつくなった。
どれだけ彼が努力を重ねてきたか、私は見てきたのに。なぜ彼自身がその自分を裏切るようなことを平気で言うのか。私が、身を切られるような寂しさを抱えて、それでもあの大切で濃かった時間を手放さなければいけないと思っているときに、なぜ、あれが無価値だったみたいな言い方ができるのか。
完全に八つ当たりだと分かっていた。疲れて落ち込んでいる先輩を労わらなくちゃいけないと頭では理解していたけれど、言葉は止まらなかった。
「崩れたって言いますけどね、ちょっと固まっちゃってただけですよ。あの後すぐリカバーしたじゃないですか。団長がそういう自己評価したら、みんな委縮しちゃいますよ。崩れるどころか、そもそもの最初からハンデをもらって、団長におんぶにだっこ状態で今日のシフトを終えた私だって、無価値ってことになりますけど」
「……アン」
「あんなに頑張って二か月特訓してきて、一日のシフトを走り終えて、掛けてもらう言葉が『もうちょっとできるかと思ってた』じゃ、頑張った団長がかわいそうです。ちゃんとやりきったじゃないですか」
私も疲れてるんだ。支離滅裂なことを言っている。
「悪かった。変な言い方をした」
おろおろと団長は自分のトートバッグを探った。ようやく見つけ出したティッシュの小袋を差し出されて初めて、私は自分がぐちゃぐちゃに涙を流しているのに気がついた。
「すみません。こっちこそ、わけわかんないこと言って」
少しだけ我に返って、受け取ったティッシュで顔をぬぐって呼吸を整えた。
「……よかったら、それ、冷たいうちに」
それもそうだ。ペットボトルの封をゆっくり切った。
もらった炭酸飲料は無色透明でレモンの香りがする昔ながらの銘柄だった。
黙って数口、それぞれの飲み物を飲んだ。いつもふざけて私をからかったり、どぎまぎさせたりする陽気な瀬戸先輩だけど、黙って一緒にいるのも全然嫌じゃない。むしろ、今日みたいに色々あり過ぎた日には、沈黙の方が何だかほっとする気がした。
練習の時もそうだった。練習が純粋に練習のためだけの時間だった時は、特に話すことがなくなると、私は授業の予習をしたりレポートをまとめたりしていた。語学や一般教養で先輩がわかる科目なら、ちょっと口を出して教えてくれたりもしたけれど、黙ってそれぞれに自分のできることをしている時間もそれなりにあった。
簡単な作業くらいならできるようになって勤務時間にカウントしてもらえるようになってからは、声を掛け合いながら備品チェックをすることもあったけれど、ただ黙々とペーパーナプキンを折ったりカトラリーやグラスを磨いたり、普段は手の届かないところの掃除をしたりすることもあった。
でも、その沈黙を気まずいと思ったことは一度もなかった。声を出して話すとか、話さないとか、そういうことを意識せずにお互いにしたいようにしていて、それが居心地がいい、という感覚があった。
ああ、つまり、それだけ好きになっちゃってたんだな。憧れとか推しとか、無自覚イケメン行動で心臓に悪い団長だとか、そういうことではなくて、もっと隣にいる人として好きになっちゃってたんだ。
すとんと腑に落ちた。
でも、練習はあくまで先輩の練習だし、仕事は結局のところ店の仕事だ。私にとっていくら大切で特別な時間だったとしても、それはあくまで私一人の思い入れにすぎない。私のわがままで引き延ばせる時間じゃないんだ。
認めてしまえば、口内炎の時みたいにずきずきと胸は痛むけれど、それでもすっきりした。
話のしやすい職場の同僚、気心の許せるバイト仲間。明るくて何でもできる瀬戸先輩に、引っ込み思案だった私がそう思ってもらえているだけだって、実はなかなかすごいことだと思う。
私だって、けっこう頑張ったな。バイトで。
始めたばかりの頃は、誰と話すのでもすごく緊張していたのに、いつの間にか平気になっていた。
それもきっと、しょっちゅう瀬戸先輩がからかってきて、それにただ黙っていないで、それなりに切り返したりしていたからだ。そのおかげで自分も会話に慣れることができたし、それがきっかけで他の同僚が話しかけてくれたりして、どんどん居場所ができていった。
先輩の――先輩だけじゃなく、周りのみんなの心配りもあったけど、私も私なりに頑張って、ここまできたんだ。