18 閉店間際の事件
正確にそのとき、誰がどう動いていたのかはわからない。私はちょうど、下げた食器を厨房に持っていき、ホールに戻ろうとしていたところだった。
がしゃん、と鋭い音がして、私はとっさに音の出所を目で追った。
真っ先に目に飛び込んできたのは、蒼白になった団長の顔だった。
ただ事ではない、ということだけはすぐに分かった。
ガラスが割れるだけなら、それなりに日常的な事故だ。あれだけ近くにいるなら、団長が率先して周囲に指示を出しながら対応するはずだ。
でも、その周囲は時間が止まったようになっていた。誰もが困惑して、動きを止めている。
それだけ見てとるのに、おそらく一秒はかかっていなかったと思う。
私はいつかと同じように、とっさに緊急掃除セットをつかむと、現場に駆けつけたのだった。
床に広がる赤いスムージーのしぶき、大きくひびが入って割れたポーションの瓶が二つ、床に転がっていた。
いつもならこういう現場で明るく対応の指揮を執るはずの団長は、呆然と固まってしまっている。
「え、と、あの……大丈夫ですか」
戸惑ったように、ご令嬢が声をあげた。団長と私が担当していたテーブルの三人連れのお客様だ。
「申し訳ございません」
とっさに私が頭を下げると、その場で盆を片手に持ったままだったモーリスも慌てて頭を下げた。
「大変失礼しました」
後で聞いたところによると、遠目で見ていたクドリャフカには、帰ろうと席を立ったご令嬢を案内しようとした団長と、ドリンクを運んでいたモーリスの動線が交錯した、ように見えたらしい。
モーリスが運んでいたスイカスムージーが床に落ちて、飛び散ったのがまずかった。種に見立てたチョコチップも混ぜ込まれてリアルな見た目に仕上がっているのが、まさに裏目に出た格好だ。
よりによって、一番よろしくない偶然が重なってしまった。そして、団長の困りごとを知っているのは私だけである以上、この場を収拾して適切な対応ができるかどうかは、私にかかっている。
私は急いで、スムージーがそれ以上広がらないように、そして団長の視覚と嗅覚からなるべくその赤い液体を隠すために、紙雑巾で上から押さえ込むようにして拭き集めながら、まずモーリスに声を掛けた。
「ここは対応するから、厨房に報告を」
自分の失敗にも、思いがけない団長の反応にも面食らっていたモーリスは、介入にほっとしたらしい。短くうなずいて、ご令嬢方に再度深く頭を下げたのち、ぱっと踵を返し、厨房に急いだ。
「団長。ご令嬢がたのお召し物に被害がないかをご確認ください」
促してみるが、団長は動けないでいる。ネッククロスとスイカスムージーに、数時間耐えてきた後だ。一瞬、緊張の糸が切れてしまったのだろうか。
いつかのクドリャフカと同じ展開だった。このままではまずい。
とっさにひっつかんできた手もとの道具を見ると、おしぼりがない。
私も相当慌てて、注意散漫になっていたらしかった。これでは、緊急の染み抜き対応すらできないではないか。
自分にもがっかりしそうになる。
だからといって、今、何もしないわけにはいかなかった。
私は破れかぶれになって、立ち上がった。
えーい、もうどうにでもなれ。
とっさに思い付いたことは、我ながらどう考えても最善手とは思えなかったけれど、仕方がない。
「セドリック団長、ご令嬢がたに失礼ですよ」
厳しい口調を装って言うと、私は団長の正面に立ち、ぐっとネッククロスをつかんだ。ご令嬢がたに背を向ける格好になってしまったが、やむを得ない。
一瞬、視線が合った。焦り、苛立ち、恐怖。いつもなら団長の目の中に見ることのない感情が渦巻いている気がする。
当然だろう。今日一日、どれだけ張りつめて過ごしてきたかを考えれば。
ご令嬢がたに見えないように、私は小さく微笑んだ。
大丈夫です。ここは任せてください。誰にも、団長を責めたりさせません。
そう思っていることが伝わればいい、と念じつつ、口ではまったく逆のことを言う。
「あなたがその態度なら、これ以上任せておけません。失礼ながら私がお伺いしないわけにはいきませんね」
そのまま、するりとクロスを解いて団長の襟元から引き抜くと、おろおろと様子を見守っていた三人連れのご令嬢のうち、スムージーが落下した現場に最も近かったご令嬢に向き直った。
「大変なご迷惑をおかけしました。お召し物に染みがついていないとよろしいのですが。一度こちらの席にお掛けいただいて、確かめていただいてもよろしいでしょうか。私共の手落ちですので、対応させていただきたく存じます」
やけっぱちの王子様演技のおかげで、かえって、自意識が薄れたのが功を奏したのかもしれない。私は、アドリブの少々長いセリフを、一度も噛むことなくどうにか声にのせることができた。
あとは仕草で乗り切るのみ。
ご令嬢が手にさげていたレザーのバッグに一滴、赤いしぶきが飛んでいるのを見つけて、恭しい手つきになるように心がけながら、団長のネッククロスでそっと押さえた。
「きゃあ、麗しの団長様のクロスで! 恐れ多いことですわ!」
「ありあわせのもので申し訳ございません。いま、拭くものをご用意します。急がないと染みになってしまいますので」
数か所、お客様のスカートの裾に赤い染みを確認した。ウェイティングルームで貸し出している中世風の衣装ではなく、ご自身で着てこられた服だ。マネージャーにクリーニング補償の対応をしてもらわないといけない。
私はいったん立ち上がって、団長に向き直った。
「団長、戻ってマネージャーに連絡を。それから至急、手の空いている騎士に、おしぼりを持たせてください」
ネッククロスはどさくさに紛れて外したわけだし、とにかく一旦この場を離れて深呼吸すれば、気分が変わるはずだ。
私は思い切って力をこめ、ばしっと団長の背中をたたいた。いつもエリカさんがクロード君にやっている、親し気なあの仕草。たぶん、騎士同士でやってもおかしくないってことだと思う。
はっとしたように団長がうなずいた。目に意志の力が戻ってくる。彼は軽く黙礼してバックヤードに向かった。多分、これで一安心だろう。
ご令嬢たちは、仲間内で興奮気味にささやき合っていた。
「さすが隠しキャラの王子様。団長より実は身分が上っていう設定が効いてる……!」
「お忍びの王子と団長の禁断の関係?! ネッククロスを引き抜いちゃうなんて、絵面、激ヤバ!」
「待って待って、王子様の思春期男子アルトボイスまで完璧なんですけど! 設定のクオリティ高すぎて変な声出るー!」
「アンソニー様はめったにお店には出られないってことだよね? 今日って私たち、めちゃくちゃラッキー?!」
……こちらのお三方もまた、『タラリア騎士団の訓練舎』の世界観を存分に楽しんでくださっているお客様だったのは、幸いだったと言うほかないだろう。
ご令嬢たちのほんのりBのLなテイストの解釈に相当恥ずかしくなりつつも、届けてもらったおしぼりでどうにか緊急の染み抜き対応をしているうちに、団長がバックヤードから戻ってきた。
「お見苦しいところをお見せしました。お怪我がなかったのが何よりでしたが、この不手際、お詫びの言葉もございません。ただいま責任者も参りますので、少々お待ちください」
エレガントに右手を左胸にのせて膝を折る団長は、ようやくいつもの団長だった。
「では、私は床の方を」
対応を交代して、私は中断していた緊急掃除に戻った。紙雑巾で割れたガラスをバケツに拾い集め、スムージーを大まかにふき取ってハンディモップで床を拭っているうちに、ようやく、緊張が追いついてきた。
嘘でしょ、私、対応できたの……!?
今さらながら、心臓がばくばくして頬が熱くなる。手が少し震えて、ガラスのかけらを取り落としそうになった。
どう考えても、スマートな対応ではなかったかもしれない。でも、少なくとも、お客様がせっかくこの店で楽しんでくださった気分を大きく損ねることもせずに済んだし、団長が我に返る時間を稼ぐことはできた。
間違いなく、達成感が胸にあった。私だって、やればできた。
私はごしごしと床をこすりつつ、ほんのりにじんでしまった涙を見られないように、瞬きをして散らした。
最後のお客様がご帰宅の途につかれるまで、ここはあくまでファンタジー世界の騎士団の訓練舎で、私は騎士見習いに身をやつした第四王子アンソニーなのだから、泣いていたりしたらダメなのだ。気を抜くわけにはいかなかった。