14 秘密の特訓
セドリック団長のネクタイ練習は、それぞれの授業に重ならないように相談しつつ、主に開店前の時間を使って店のスタッフルームを借りてやることになった。
マネージャー以外のスタッフには秘密の特訓だ。マネージャーがある程度事情を知っていて、融通をきかせてもらえたのは幸いだった。
「団長とアンちゃんだからいい加減なことはしないと思うけど。色々気をつけてね。開店までに余裕があっていったん離れるなら、火の元、戸締り。あとコンプラ。何かあったら、ちゃんと相談してね」
口酸っぱく注意するマネージャーに、はい、と神妙な顔で応じて、団長は鍵を借りていた。
七月の新制服導入まで、二か月ほど。
制服が店に届くまでは、団長がオーナーから借りてきた柔らかいスカーフを使うことにした。
練習といったって、基本的に私がすることはない。
一日目で既に、手持無沙汰になってしまった。
もちろん、団長が緊張しすぎないように、気軽なおしゃべりを続けるように心がけてはいる。他愛もないよしなしごとを言い合いながら、団長がネクタイ結びの練習をするのを観察する時間となれば、私にはスーパーごほうびタイムでしかないのだけれど、何もしないでしゃべっていると、ついテンションが上がって余計なことをしゃべりすぎる。
「というわけで、私も持ってきちゃいました」
二日目からは、自分のスカーフも持ち込んで結ぶ練習をしてみた。なかなか奥が深い。
「俺は結ぶ練習というより、結んだままでいる練習なんだけど」
「まあまあ、いいじゃないですか。ほら、見栄えのする結び方の試行錯誤もできますし、結びに手間取る騎士さんがいたら私もお手伝いしないといけないかもですし」
「……あー、それはダメ。腹立つ。絶対自分でできるようにしろって言う」
「うわ、自分が今苦労してるからですかー? 良くないですよ、そういうの」
私がからかうと、団長はむっとしたように口の端を下げた。
「そんなわけあるか。自分の服を自分で着れるようになりなさいって、幼稚園や保育園でもう習うだろ。いい大人ができなくてどうする。アンが手伝うのはだめ」
絶対、変な勘違いするやつ出てくるし、とぶつぶつ言う。
「でも、実際にやってるのを見ないとわかんない子いますよ、きっと」
「じゃあ、アンが自分で結んでみせるのは許可。やってあげるのはダメ」
「粘りますねえ」
なぜそんなことにこだわるのか訳が分からなかったけれど、妙に子どもっぽい口調で言いつのる団長がおかしくて、私は笑った。
「それに、団長のお手伝いもしますよ?」
「え」
団長はぎょっとしたように、自分の結び目から顔をあげた。すごい形相をしている。
「ぎりぎりを攻める研究のお手伝いもできるんじゃないかと」
「ぎ、ぎりぎり……? 一体、何を……」
「ええ、ほら。だらしなく見えない範囲で、どこまで緩められるか、とか、どの結び方が一番圧迫感が少ないか、とか。私も自分で身を持って体験すれば、提案できることがあるかもしれないじゃないですか」
私が自分の首に巻いたスカーフの結び目に指をかけて、少しだけ押し下げて見せると、団長はなぜかほっとしたように、がっくり肩を落とした。
「ああ、うん。それは助かる。……悪い、動揺した。本筋を見失ってはいかん」
「二日目から練習メニューがハードすぎてません? 呼吸、荒くないですか。ちょっとペースを落としてもいいのかも?」
「断じてそういうことではない。大丈夫だから」
団長は健気にも、スカーフの結び目から指を離して目を閉じ、深呼吸した。
「大丈夫。心頭滅却すれば、煩悩も去る……!」
妙なテンションである。こんなに長い時間、仕事以外の話をする機会なんて今までほとんどなかったけれど、かなり面白い人だったらしい。苦手なネクタイに立ち向かうためのテンションなのかもしれないけれど。
これだけ真剣に向かい合おうと努力している団長に、私は内心、あらためて尊敬の念を深めていた。
もちろん今までだってすごく尊敬していた。でも、どちらかと言えば器用な方で、何でもスマートにひょいっとこなす人だと勝手に思っていたのだ。けれど、実際にはそうじゃなかったのかもしれない。簡単にやっているように見えて、人に見えないところでこれだけ努力を重ねられる人なんだ。
すぐに実るかどうかわからない努力をただひたすら積み重ねることができる、というのもまた、得難い才能だと思う。
「あ、そうだ。偶然、面白いの見つけたんです」
瞑想する修行僧のごとく、目を閉じたまま深呼吸を繰り返す団長を見ているうちに思い出した。
「じゃーん、見て見て! 父が会社のビンゴで当てたんですけど、いらないからって実家から他の荷物と一緒に送ってくれてて」
私は、バッグから電子機器の小さな紙箱を取り出した。
「ジョギング用の腕時計型万歩計なんだそうですよ。スマホと接続して心拍数とか血圧とか、簡易測定できるらしいんです。これで、スカーフをつけたまま状態を観察しながら、心拍数が上がってこないように深呼吸とか繰り返して、よけいなことを考えないようにするのってもしかして練習になりません?」
動画投稿サイトで見かけた、少々眉ツバものの素人瞑想のハウツー動画でやっていた方法だ。効果のほどは定かではない。でも、何がハマるかわからないのだし、状況が悪化しないかぎりであれば、色々試してみてもいいのではないか。
「し、心拍数……」
団長は大きく息を吐き出して、ほんの少しだけ首元の結び目を緩めた。
「えっと、それ、借りてみていい? ここでは心拍数コントロールの成果って絶対わからなさそうだから」
「あ、やっぱり人に見られてると緊張するとかありますよね。もちろんお貸しします。でも、ちょっとでも嫌な感じがしたらすぐやめてくださいね。私のは単なる思い付きですし」
「なんか、アン、楽しそうだよなあ」
「不謹慎に聞こえました? すみません」
私は肩をすくめた。
はしゃぎすぎだろうか。でも、いつも大きくてしっかり者、みんなのお兄さんポジションの団長を気遣う方の立場に回れるなんて、めったにない。
「面白がってるつもりじゃなかったんですけど」
「ああ、いや。責めてると取らないでほしいんだ」
先輩は机にぐったりとつっぷした。
「正直、助かった。普通に気楽にしててくれて。時間使わせちゃってるのは申し訳ないけど、……アンがいてくれてマジでよかった」
……これはずるい。
あーもう。
脱力していつになくけだるい調子でそういう殺し文句を無意識で言うの、止めてもらえないかなあ。
やっぱり団長は団長だった。
「わ、私、次に当たる予定のドイツ語の予習が終わってないんでした! ここで作業させてもらうんで、団長は続けてください」
慌てて壁際の机に置いていたリュックサックに向かう。
二か月ちゃんと正気を保てるかどうか、心配なのは私の方かもしれない。