12 騎士団長の秘密(前)
「ええと、つまるところ……ネクタイ恐怖症、みたいなものですか?」
しばしの後。
先輩の少々歯切れの悪い説明を、なるべく遮らないように最低限の相づちで聞いて、カレーの人参と一緒にゆっくり咀嚼して飲みこんでから、私は問い返した。
「うん。多分、その表現がすごく近い気がする」
先輩はうなずいた。
いわく、首元にぴったりと沿うような紐類を身に着けるのが、生理的に受け付けないらしい。どうしても必要があればするけれど、ずっと気分が悪い。緊張のしどおしで、次第に変な汗が出てくるし、肩がこる。完全にきちっと締めた状態だと、一時間もたせるのも困難。
今までは、親しい人には事情を説明し、後はごまかしごまかしでなんとか乗り切ってきた。中学、高校も、今時珍しい学生服スタイルだったので式典の時だけ詰襟をきっちり止めればよく、あとは少し緩めているのが周囲も当たり前だったため大きな問題にはならなかった。それでも就職活動が目前に迫ってきて、そうも言っていられなくなったのだという。
「言われてみれば確かに、スーツ姿を見るのも今日が初めてですね」
「もともと、今の『タラリア騎士団』も企画立ち上げ当初のコンセプトは執事喫茶だったんだ。でも、執事でノータイはさすがに問題だろう。で、叔母が当時ハマってたスマホゲームに着想を得て、陸がネクタイできないなら執事はやめにして、いっそ騎士喫茶にしちゃえばいいんじゃない、と路線変更したってわけ」
陸、は先輩の本名だ。
うわあ。
叔母様だったら家族だからファーストネームで呼ぶのが当たり前なんだけど、不意打ちはどきっとする。
邪念に脱線しかけた自分の意識を本筋に戻して、私はうなずいた。
「なるほど。むしろ、団長ありきの計画、団長に現場経験を積ませるためのお店でもあったんですね」
「叔母の意図としては、そういうことになるんだろう。あの人もいっぺん言い出したら、路線変更まではするけど、完全に納得するまでは基本やめない人だから」
「あ、じゃあ、もしかして騎士に関して勉強したっていうのも、オーナーが?」
「あれは大変だった」
遠い目になって先輩はぼやいた。オーナーがハマっていたスマホの乙女ゲームを皮切りに、イメージ作りに合いそうなゲーム、まんが、アニメ、ラノベと手当たり次第に渡され、山ほど目を通す羽目になったらしい。
「叔母は最終的に自分の事業に俺を引きずり込む気まんまんだから、別にネクタイができなかろうが、仕事ができれば関係ないと言ってはくれている。でもまあ、社会人として、できないよりはできた方がいいよ、特に若いうちは、という助言もあって」
ビジネスの場面では、第一印象が大きく物を言う。もちろん、得意不得意を理解してもらえるように説明することも大事だけれど、門前払いで損をしないためにも、できるにこしたことはない、というのが叔母様の意見なのだそうだ。
「それにはもちろん俺も同意する。でも、具体的にどうしようかってなるとなかなか、思い付かないままでここまで来ちゃったんだよ」
叔母様は、医療機関の受診や専門家のカウンセリングを受けることまで提案してくれたらしい。だが、それには、瀬戸先輩の方に抵抗感があった。
「病気じゃないだろ、っていう気もして。いや、気分が悪くなるとか、汗が出るとか、身体症状が出てるんだから、頼ったっていいんだと理性では思う。でも、なんか感情的に納得が行かなくて。まだもう少し、自分で試せることをやってからでもいいんじゃないかって」
「……わかります」
そうなのだ。まだ何かできることがあるんじゃないか、と思ってしまう気持ちにはすごくうなずけた。
「そう言いつつ、ついつい先延ばしにしていたら、業を煮やした叔母が投入してきたのがあの夏服ってわけ」
今までの騎士衣装は、かぶって着るタイプのスラッシュ開きのチュニックで、V字に開いた胸元の切り込みを軽く編み上げ紐で調節するだけだった。その上から身に着ける軽量のプレートアーマーも首元はそんなに詰まっていない。
さらにその上にマントを掛けるわけだが、掛け方は騎士さんたちそれぞれに任されている。そういえば、セドリック団長はいつもマントを左肩にだけ掛けて、結び紐を右のわきの下を通して結ぶスタイルだった。腕のさばき方にかなりコツがいるけれど、アシンメトリーなシルエットで、動いたとき優雅に見えるやり方だ。憧れている騎士たちが多いのは知っていたが、まさか当の本人にしてみれば首元で紐を結べないという裏事情があるがゆえに、そのスタイルにせざるを得なかったのだとは、想像もしてみなかった。
これまでの騎士服であればそれで問題なかったわけだが、今回提案された夏服となるとごまかしがきかない。襟を立てたドレスシャツの上から、スカーフのようなタイ――ネッククロスと呼ぶらしい――を結ぶことになっているのだ。ネッククロスを緩めて身に着けてしまうと、全体のかっちりとフォーマルな雰囲気とちぐはぐになって見た目がだらしない。
「それが叔母の意図なんだよ」
先輩はため息をついた。
制服変更を、多少強引にでも首周りの布に慣れる機会として生かしていくか。それとも、この騎士服を着るのが難しいなら、いっそ平のバイトではなく副店長に昇格して店の運営にもっとしっかり携わるか。後者を選ぶなら、店に騎士として立つ時のために、特別に団長仕様の制服を別で発注する、その場合は首周りのデザインも配慮する、と言われたのだそうだ。
「……どちらを選ぶにしてもなかなかシビアな決断ですね」
「俺としては、もうちょっとだけ、時間が欲しいんだ。大学を卒業するときには普通の就職活動をして、叔母と関係のない会社で経験を積ませてもらったほうが、将来に向けてより多様な視点を持てるかもしれない、っていう気持ちもあるんだよね。しっかり覚悟を固めたり、責任感を養ったりする上でも、一旦叔母のもとを離れるほうが、遠回りなようでいて結局必要なプロセスなのかもっていうのもあって、まだ迷ってるんだ。実際問題としては、叔母のところに就職するならネクタイ問題は今のままでもかなり回避できるはずだ。お得意先のどうしてもネクタイが欠かせない相手と会う時だけ着ける。他は免除してもらう。でも、その件も、それでいいのかっていう気もして」
先輩はふと、視線を傍らの大きな窓に向けた。夕暮れは次第に深まって、窓の外のあわい残照と、窓のこちら側の控えめな照明が混ざりあうようにガラスに映っていた。
「……長い目で見て、いずれは叔母の手伝いをすることになると思う。すごくやりがいがある仕事なのは見ていてよく分かったし、叔母が大切にしたいことも共感できるし。でも、アルバイトの経験にしても、今の立場だから見えることが、このままの流れで昇格しちゃうと、立場が変わって見えにくくなってしまうと思って」
だから、アンに頼みたいんだ、と先輩は私に向き直って頭を下げた。
「ネクタイを身に着ける練習、付き合ってもらえないか。今まで自分でどうにかしようとしてきたけど、やっぱり、どうしても甘えが出てしまう。人に見ていてもらうと思えば、サボらずにできると思うんだ。ほんと何もしなくても、見てるだけでいいから」
わあ、頭を上げてください、と慌てて私は目の前の相手を止めた。
工藤君と言い、瀬戸先輩と言い、これをやられるととても居心地が悪い。
「そんなことならお安い御用です。でも、本当に具合が悪そうだと思ったら、強引にでも止めますからね」
無理にやりすぎて過呼吸発作でも起こして倒れたりしたら、人一倍背が高くてガタイのいい団長を支えるのは私には不可能だと思う。そう言うと、先輩は、にかっと笑った。
「もちろん。その意味でも、様子を見ていてくれる人がいるのはマジで助かる」
ようやく、いつもの団長らしくなってきた。
私もすこしほっとした、その時だった。
ぽこん、とポケットに入れていたスマホが短く振動したのに気がついた。