10 美女と騎士団長
工藤君の読みは当たった。パーキングメーターの前に車を止めてから、四十五分程度だろうか。
来た。
思わず首をすくめつつ、私は観葉植物の陰から、二人連れをそっと見守った。
室内ではサングラスを取っていたため、女性の顔をようやく見ることができた。案の定、大人っぽい美女だ。くっきりした目元のメイクに意志の強さと堂々とした自信が溢れて見えた。ハイヒールを履くと、長身の団長と並んでも頭半分程度しか身長差がなくなるほどの背丈。身体にしっくり沿った仕立てのいいグレーのスーツとドレープのきいたペールブルーのブラウスに身を包んでいる。モデル顔負けの体型に見合うだけのすっと伸びた背筋や優雅な足の運びもかっこいい。
絵になる二人連れ、という表現がぴったりだった。
正直、彼女ではない、という工藤君の見立てを、私は頭から鵜呑みにしているわけではなかった。彼が推し心に目を曇らせている可能性だって十分あるではないか。そもそも工藤君は、私が団長の彼女だなんてとんちんかんな勘違いをついさっきまでしていたのだ。そんな人の断言を信用することはできない。
でも、この人が相手だったら勝ち目ゼロだなあ……。
正直打ちひしがれてしまいそうになる。
さり気なく視線で追いつつ、工藤君にスマホでメッセージを送った。
『対象、移動開始』
工藤君は一足先に二人分の会計を済ませ、いつでも動けるように自転車に乗って、路肩のパーキングロットに停められたさっきの車を見張れる位置に移動していたのだ。
『了解』『後で』
ごく短いメッセージが立て続けに返ってきた。
二人と距離を保ちつつ、私も席を立った。工藤君に会計を済ませてもらっていたのは正解だった。別室では席で会計するシステムなのか、二人はレジの前を素通りして、ホテルの正面玄関へと向かっていく。何か会話しているようだが、私の位置からは聞き取れなかった。
ロビーの片隅で、先に立って歩いていた女性がふと立ち止まった。私が慌てて柱の陰に身を隠すと、何か話しながら、彼女は瀬戸先輩の襟元に手を伸ばした。二人の距離がぐっと近くなる。こちらに背を向けている先輩の表情は見えないが、その親密そうな空気に、私の心臓は一瞬止まりそうになった。
華やかな笑顔のまま、彼女はすっと身を引くと、瀬戸先輩の手から書類かばんをとって颯爽と身をひるがえし、歩き始めた。彼は大仰になり過ぎない程度の会釈で見送る。ホテルのロビーで浮いたり悪目立ちするようなことはなかったが、背筋に一本ぴしりと筋がとおった姿は、やっぱりセドリック騎士団長のモードに見えた。
だが、美女と先輩を隔てるガラスの自動ドアが滑るように閉まったところで、瀬戸先輩は後ろから見てもわかるくらい大きくため息をついて、肩を落とした。
ものすごく疲れたか、あるいは、ものすごく落ち込んだか。
そんな仕草に私は、知らず知らずのうちに自分のブラウスの胸元をぎゅっとつかんでいた。
聞かなきゃ、と、怖い、がせめぎ合う。
そんな意気地なしの私の背中を渾身の力でどついたのは、さっきの工藤君の言葉だった。
『もし先輩が困っているなら、僕は手助けしたい』
そう言って、今は病み上がりの身体で無謀にも自転車を走らせている後輩がいるのに、自分がこのままでいいわけがない。私だって、もし、瀬戸先輩が困っているなら、できることをしたい。工藤君より歴は浅いかもしれないけど、私だって瀬戸先輩をずっと見てきたし、よくしてもらってきたし、なんなら心の中で推してきたのだ。負けてたまるか。
これが私たちの勝手な思い込みで、実際には何もないならそれでいい。あの人が彼女だってわかって失恋が確定したとしたって、ここで何もしないで後悔するのより、断然いい。
「瀬戸先輩!」
私は柱の陰から小走りに歩み出て、見慣れた背中に近寄った。
「え、……って、安西?!」
大きく肩を揺らして、彼は振り返った。
「なんでここに?」
「社会経験とバイトの勉強を兼ねて、ラグジュアリーなティールームを体験しに。素敵なお店ですね」
私はつい今しがたまで座っていたティールームを指さしてから、努めて何でもない風を装って、明るく切り出した。
「見ちゃいましたよ。さっき、すっごい美女と一緒だったじゃないですか」
口内炎を自分からつついてしまった時のように、わかっているけどずきっとする。でも、このくらい軽いノリでいかないと、変な空気にしてしまうだろう。
それでもいきなり、彼女さんですか、とは聞きにくい。
「何かのお知り合いですか? まさか、就活?」
「就活……いや、うん。あー、そういうことに……なるのか?」
団長から返ってきたのは、意外に歯切れの悪い返答だった。就活かそうじゃないかって、そんなに迷うところじゃなくない? 私には言えないってことなのか、と思うと少しひるんだ。でも、今頃自転車で爆走しているはずの工藤君のことを思い出したら、変に遠慮して引き下がるのも違う気がした。
「え、ほんとに? それにしては、ネクタイ、ラフじゃないですか」
私も一目見て気になっていたし、名探偵工藤君(!)も、このネクタイは就活というには違和感があると指摘していた。このくらいは言ってもいいはず。
ぎょっとしたように団長は襟元を押さえた。
「さっきのお姉さんと、なんか最後ちょっといい雰囲気になってませんでした? 隠そうとするなんて怪しいなあ」
からかうような口調で笑顔を浮かべ、腕を組んだ。意識した陽気なふるまいとは裏腹に、口内炎のようなずきずきとした痛みは、喉といい胸の奥といい、焼けるように広がっていく気がした。でも、実際問題、それならそれでいいのだ。本当に彼女さんなら、お似合いの美女だ。
一番嫌なのは、マルチ商法とかで先輩が困った状況になっているのを見逃すことだ。いい人すぎる瀬戸先輩に付け込もうとするやつがいないとは限らない。
「最後……」
怪訝そうに眉をひそめてから、先輩ははっとしたように私の二の腕をつかんだ。
「違う! あれはそういうのじゃなくて」
ホテルのロビーに似つかわしくない大きな声だった。とっさに出てしまったのだろう。自分の声に我に返ったように、先輩は私の腕を離した。周囲から、なんだケンカか? と案ずるような視線が飛んできて、彼は気まずそうに咳払いした。
「ええと、あの。……そうだ、安西に相談したいことがあるんだけど。もしよかったら、この後、ちょっと時間もらえたりしないだろうか」
私の方から何も切り込まないうちに、彼の口から飛び出した耳慣れないフレーズに、私は思わず首を傾げた。
あのセドリック団長が、私に自分から『相談』したいって? いつも堂々として何でもできちゃうのに?
それでも、身長差のせいで覗き込むように見下ろす視線に、ごまかしや嘘の気配は感じられなかった。本気で言っている、らしい。
『僕だと頼ってもらえないかもしれませんが、安西さんなら可能性があります』
工藤君のあの言葉だって私はそんなに信じていなかった。何もしないのは嫌だったけれど、かといって何か自信があったわけでもない。でもここまで、名探偵工藤君の推理は恐ろしいほどよく当たっていた。
……これはやっぱり、あれなのか。すごくまずいことに巻き込まれているのか。
心臓は口から飛び出しそうなほどドキドキしていたけれど、私は釣り込まれるようにうなずいていた。
「ご一緒します」