中編
バスに揺られている間、ずっと心が弾んでいた。
部長は海が久しぶりと言っていたが、自分もそれなりには久しぶりなので、楽しみだった。
しかし肝心の部長との会話のネタに窮して、乗ってから降りるまでほぼずっと沈黙が続いていた。
「髪、束ねているんですね」などとおかしなことを言ってしまってまた沈黙を続けてしまったりした。
バスから降りて最初に「暑いね」と部長が言った時にやっと安心できた。
「暑いですね」
「ここからしばらく歩かないといけないけど熱中症とかには気を付けないとね」
そう言って辺りをきょろきょろと見回して困った表情をする部長にこっちの方だと先導していく。
バス停の周りから海までは陽射しを遮るものがほとんどなく、夏で舗装された道路と夏で満たされた空気で結んだ直線の先に遠くの電柱が融けたようにゆらめいている。
そしてその先にある水平線からは、雲ひとつない空へと伸びていく真っ白な入道雲があった。日陰に入りたいと思った。今すぐ駆け出してあの白い入道雲の下へ行きたいとも思った。
しかし、ぬるい雨に打たれて滅入るくらいならば、いっその事、うだる方がまだマシだなと思ってゆっくり歩みを進めていった。歩いていくうちに段々と風が出てきて気持ちよくなってきた頃、ふと隣を見ると部長がいなかった。振り返ると数メートル後ろで立ち止まっていた。
どうしたのかと思いつつ近づくと部長はこちらを見て微笑んで、指先でくるくると回れ右のサインをしてくる。
言われるまま、後ろを向いてしばらくすると電子音が小さく鳴った。撮られたらしい。
「ふふ、ごめんね、撮っておこうと思って」
「部長自身じゃだめなんですか」
「ほら……私は撮ることが好きなだけだから」
どうやら被写体になることは好きではないようだ。しかし、だからといって自分だけ写真を撮られるのもなんだかなぁと思う。
それにしても、どうしてこんなところで写真なんて撮り始めたんだろうか。別にこの辺の風景など珍しいものでもないはずだ。
何枚か撮った後、満足した様子で部長は再び歩き始める。
自分は、さっきまでの暑さを忘れたかのように、今度はゆっくりと部長の後についていった。
「いい写真、撮れましたか」
「ん……ばっちりだと思うよ……」
部長はカメラを見つめながら答えてくれた。
その言葉を聞いて少し安心する。不細工には撮られていないようである。
「ちゃんと撮れてたよ」
「よかったです」
そう安心していると部長はカメラをいそいそとカバンにしまい込んでから、近くにぽつんとある自販機の方へと歩き出していく。
それを少し早足で追いかけると部長はその自販機の前で立ち止まってこっちを静かに見てくる。
「……何か一本いるかな」
「いいんですか」
「呼びつけたし、撮らせてもらったから……」
そう言うなり部長は財布を取り出してお札を入れた。
部長が買うなら自分の分は自分で買おうと思っていたのだが、あっさり奢られようとしている。
ありがとうございますと言ってサイダーのボタンを押すと、部長は残ったお金で自分の分の紅茶を買っていた。
「いつものじゃないんですね」
「暑いからたまにはミルク入りじゃなくてすっきりしたものが欲しくなっちゃって」
「あれはあれで美味しいですけどね」
そう返しながら一口飲む。喉を通る冷たくて甘い液体が心地よい。
隣では部長も同じようにして飲んでいたのだが、何と表現すればいいのだろうか、自分と比べてどこか夏っぽく感じられてしまって、自分は何を考えているのだろうかと思った。
そんなことを思っている間に部長は自分の方をじっと見ていて、視線に気付いた途端に目が合った。
そして部長は何も言わずに眠たげな目でにっこりと笑ってくれた。
きっと何も考えていないんだろうな、と思った。
それからしばらくして、また海の方へと歩いていった。
少しずつ潮の匂いが強くなっているような気がして、もうすぐ着くんだろうな、などとぼんやりと思っていた。
その間も部長が楽しそうに話しかけてくれる。普段の眠たげでゆったりとしたいつもの速度である。
自分が相槌を打つ度に嬉しそうな顔をしてくれるものだからこちらも楽しくなってきて、もっと話をしたいと思えてくる。
部長の話の内容は昔話がほとんどだったが、その中でも特によく話題になったのはやはり写真のことだった。
今までに撮った面白いものだったり、感動した写真についてだったりと部長が本当に写真を撮ることが好きだということがわかる話だった。
それと、話を聞く限り、部長はずっと一人で撮影をしてきたようだ。それは確かに寂しかったんじゃないかな、などと勝手に思ってしまったりした。
でも、部長の話す姿はとても生き生きとしていたから、多分今は楽しいんだろうなと感じた。やがて海が見えてきた。まだ遠いけれど、波の音も聞こえる。
そして視界に映る光景に思わず息を飲む。
目の前に広がる水平線はどこまで続いているのかわからないほどに遠く、向こう側にあるはずの空との境界線がはっきりと見えない。
太陽の光を受けてキラキラと輝く水面が眩しくて目を細めてしまう。
そのまましばらく立ち止まっていたが、ふと我に返る。
隣を見ると部長がこちらを見て微笑んでいた。
「きれいだね」
「そうですね、久しぶりに来ました」
部長の言葉に同意してから、二人してしばらく黙っていた。
お互いに景色に見とれていたのかもしれない。
そうして、ようやく落ち着いた頃、部長が口を開いた。
「撮らないと、ね」
「そうですね」
そう言われて止めていた足を動かして部長の後を追いかけた。そして砂浜に降りる階段を見つけて二人で降りていく。砂は思っていたよりも柔らかく、靴の中に入ってきそうな感覚が少し気持ち悪かった。
波打ち際まで行くと部長はカメラを取り出して構え始めた。
自分も鞄から部長のより一回り小さいカメラを取り出して同じように準備をする。
部長は何度かシャッターを切る音が聞こえたが、自分はなかなか撮れずにいた。
ファインダー越しに見える景色と実際の風景があまりにも違いすぎるのだ。
何度もシャッターを切っては確認するが、どれもピントが合っていないように見えてしまった。
どうにもうまくいかないなと思っているうちに、部長がこちらの方にやってくる。
そしてこちらのカメラに手を伸ばして操作を始めた。どうやらカメラの設定を変えているらしい。
部長はしばらくいじった後に、これでいいでしょ、とカメラの重さが首に帰ってくる。そして再びカメラを構えると今度はすぐにパシャリと音が鳴った。
画面を確認するとちゃんと撮れていた。部長の方に向かってお礼を込めて軽く手を振ると、部長は嬉しそうに手を振り返してくれた。
その笑顔を見ていると、不思議と心が落ち着くような気がする。それからしばらくの間、それぞれで撮りたい物を探してはシャッターを切っては納得のいくまで撮り直したりしていた。
そしてしばらくしてある程度納得のいく写真が集まってきた頃に、部長が遠くからやってきて「いいものは撮れた?」と楽しげな顔で話しかけてくる。
「どうでしょうか」
持っていたカメラの小さな画面を部長に向けて、撮ったばかりの写真をチェックしてもらう。
部長はどれどれといった様子で自分の持っている小さな画面に視線を落とすと、満足そうな表情でうんと一つだけうなずいた。
その表情を近くで見たせいか、より出来に手ごたえを感じて自然と笑みがこぼれてしまう。
「よく撮れているよ」
「嬉しいです」
部長が褒めてくれたことがとても嬉しくて、思わず頬が緩んでしまう。
すると部長がこちらの顔をじっと見つめてくるものだから、急に恥ずかしくなって視線をそらしてしまう。
部長は何を言うわけでもないのだが、何とも言えない気まずさがあった。部長の方はそんなことを気にしていないのか、ただじっと見てきているだけだった。
そして部長は何も言わずにまた微笑むと、そっと口を開く。
部長の声が小さくても耳に入ってくる。
何かと思って耳を傾けると、部長の口から出てきた言葉は意外なものだった。
「私もそうやって褒めてもらったの、あなたの写真は生きているねって」
「そうなんですね」
そうしてまた沈黙が訪れた。しかし先程のような居心地の悪いものではなく、どこか心地よい空気だった。
部長はそのまましばらく海を眺めていたが、やがてこちらの方を向いて、一度大きく息を吸ってから、ゆっくりと口を開いた。
「最後の夏なんだなって」
それに返すべき台詞が思い浮かばなかった。夏に火照らされた体温がうっすらと冷えていくような感覚に襲われている。
「寂しいものですか」
「さぁ、全然分からない、かな」
部長はカバンから飲み残した紅茶を一口、二口飲んだ後にまた海の方に目を向けてしまった。
灼くような日差しを吸った黒髪が彼女の顔を隠してしまう。
その姿を自分はただただ見つめる事しかできない。
つづけ