第七話 転がり回るくらい恥ずかしい
〈その男なら、もうだいぶ離れているわよ。身のこなし……訓練された戦士みたい。何事もなくて良かったわね、って、ちょっと! いい加減にしなさいよ。いつまで笑ってるのよ。一番の年長者なんだからしっかりしなさい。こんな子どもらに心配されるようじゃおしまいよ!〉
少女には聞こえない声が、まだ笑う男を一喝した。
「わ、やっぱりおっちゃんの精霊きっついなぁ」
「なに? 精霊さんがいるの?」
少女には、声はもちろん姿も見えない。
「ん。おっちゃんの頭叩いてる。蒼究月になったろ? ついさっき目覚めたこのおっちゃんの守護精霊だってさ」
「守護精霊? 長の精霊みたいな? でも、精霊ってそうめったに人を守護しないんじゃなかったっけ?」
この世界のすべての命は生まれた年に輝く月の加護を受け、精霊の加護をも受ける。しかし、中には月の色に関係なくある特定の人物を守護する精霊がいる。
『加護を受ける』とはその場にいる不特定の精霊が守って助けてくれること。その場に精霊がいなければ力を借りることは出来ないし、精霊が人間の呼びかけ応えて現れることはめったにない。
『守護を受ける』とは、特定の人が特定の精霊にずっと守られ助けられることである。なぜ、特定の精霊から守護が受けられるのか諸説はあるが、一番有力なのが『精霊の気まぐれ』で、気に入った人がいれば守護する、というものである。
精霊の守護を受けている者は世界的にも珍しいというが、少女はこの世界に来て一年で、その珍しいという人に会うのは二人目だった。
しかし、そもそも『加護』と『守護』の違いもよく分からない少女にとって、どれほど珍しいのかもいまいちピンと来なかったので、「ふーん」と、それで済ませてしまった。どうせ見えないし、聞こえないのである。
ようやく笑いを抑えることに成功した男が、息を整えながら言った。
「そう、珍しいらしいね。でも、守護を受けている人はいるところには結構いるもんだよ。この子たちは本当に気まぐれだからね」
〈あんたに言われたくないわ!〉
ポカッとまた叩かれている。
「や、でも、ちょっときっついから、見えなくて聞こえなくて正解かも。痛い! だから叩くなってばよ!」
〈生意気なのよ〉
リクと精霊はにらみ合って火花を散らした。
少女から見たら、リクが一人でわあわあ騒いでいるだけである。
「さて、失礼した。ライレットに聞いていた通りで、おかしくなってね」
男は一つ咳払いをして、姿勢を改めた。
「はじめまして、スズ。私はキース。蒼斗ウルーから来たんだ。私はライレットの、まあ、古い友人だ。今回二人がリーシェスの王立学院を受験するということで、ライレットから世話役をお願いされてね。蒼斗まで君たちと一緒に行くことになったんで迎えに来たんだが、君はもう出発してしまった後でね。リクと一緒に追いかけて来たんだ。ちょっと怪しい人もいたみたいだけど、無事で何より。君は一回しかリーシェスに行った事がないって言うから、きっと同じ道を通ると思ってリクに案内してもらったんだよ、と、……スズ?」
少女は目を見開いて、口をわなわなと開き、この世の終わりのような顔をしていた。
「なんで、知って……?」
やっとのことでその一言だけ搾り出した。
リーシェスへ行って働き口を見つけ、やがてはこの世界で一番の智の集結といわれる王立学院を受験しようと思って出てきたのだ。誰にも内緒で考えて、準備してきたのだ。
「あー……、スズはさ、そのさ、つまりさ」
リクがバツの悪い顔をしてしどろもどろに説明した。
「ちょろっと、独り言を言うだろ? その、結構、一人の時」
確かに、独り言は言う、かもしれない。少女は思わず冷静に考えた。自分の部屋で一人の時、何か文字を書く時、覚える時、ぶつぶつ言っている自分にハッとする事があるのは確かだ。……まさか。
「盗み聞きしてたって言うの?」
「いや! 違うよ! そんなこと誰もしない! つまり……」
言いづらそうに言葉を濁すリクからキースが言葉を引き継いだ。
「君はね、スズ、一人ではなかったんだよ。どの月の加護も受けない君はね、精霊たちの好奇心の的なんだよ。君が一人きりだと思って何かを呟いた時、隣には必ずと言っていい程精霊がいたんだ。そしてね、精霊というのは話好きでね。あっという間に広がるわけ。スズがこんなこと言ってたよーって。だからね。盗み聞きではないんだけども、君の独り言は、独り言では無くて、皆の知るところとなっていたわけ」
少女は、話を飲み込むのに少し時間がかかった。そして、何を言われたのかが分かるにつれて、顔が青ざめた。
「みんな、知ってた?」
リクは何も言わずに、すまなさそうに目を逸らした。
少女の顔は見る見る赤くなり、リクたちに背を向け走り出した。
(恥ずかしい! 腹の虫なんかよりもずっと恥ずかしい!)
「スズ! 待てってば!」
リクは追いかけようとしたが、キースが止めた。
「丁度いい。あの方向に半刻も走れば街道に出る。どの道、野宿ではなくて街道沿いの宿を取るつもりだったから、このまま走って行ってしまおう。君はスズの荷物も持って。ラーイ、スズを追いかけて見失わないで。居場所が分からなくなるから。さ、私は火の始末をしてから追いかけるからリクは行って。でも決してスズに追いついてはいけないよ。恥ずかしくて死んでしまいそうな人は、そっとしておくのが一番だからね」
リクは頷いて走り出した。
〈適当に誤魔化してあげたほうが親切だったんじゃないの? あれって、メルヘン日記を回し読みされたくらいの恥辱よ〉
手馴れた手つきで火の始末をしていたキースは、言い得て妙な例えに苦笑いしながら、相棒の精霊に言った。
「いいんだよ。彼女はずっと、これからもずっとそうなんだ。ここで気付けば、同じことはしないだろう。さ、ラーイも行って。彼女の気配は我々にたどることは出来ない。はぐれたら本当に迷子になる。……裸の男とやらも気になるしね」
ラーイが行ったのを見送ると、キースは小さく溜め息をついた。
月の加護を、精霊の加護を受けない彼女のこれからの苦難は並大抵ではないだろう。こんなことくらいは、まだまだ序の口のはずだ。
しかし、まだ幼い。
けれども、あの男が送り出してきた。あの、男がだ。
そして、彼女はその最大の武器を知らないという。
「学院が荒れるなぁ……」
やれやれと、もう一度溜め息をついて、火の始末を終えたキースも走り出した。