第五十三話 愛されている
女性がアーシェからリクに目を移し、近寄って抱き締めた。
「リンカ」
リクは声にならない。
「人に頼られ人を信じること。あなたの心に欠けていたものが埋まったわね。思うがままに生きなさい。あなたは石頭のゼプラスの人形ではないの。……もう分かるわね? 男じゃなければ我が子じゃないなんて、あの子だって本心ではないのよ。貴女は自分を男だと思い込もうとして……。親の望む通りに生きなくてはならないなんて、無理があるわ」
「父上の……人形」
「そう。反発しながらも結局その通りにするのは、心のどこかで認めてもらいたいからなのでしょう。自分自身がいくらそれを否定してもね。けど、あなたにはそれももう必要ないはずです。家に帰りなさい。シャーリーがずっと泣いているわよ」
「母上が……はい、伯母上」
トーマはさりげなくリクの斜め後ろに近付き、頭をぽんぽんした。
それを見ていた女性は微笑んで話を続けた。
「トーマ」
「はい?」
自分にまで話しかけてくるとは思っていなかったトーマが驚く。
「……あなたが一番苦労するでしょうね。リンカたちをどうかお願いしますね」
予言というか確信というか、ありがたくない激励をもらったトーマは肩を落として礼を言い、心の中でリクの手を離さないことをそっと誓った。
最後に女性は、アーシェに抱きついている少女と向き合って、屈んで目線を合わせた。
「……スズ」
「さっき、水の中で助けてくれたの……あなたでしょう? あたしが最初にここに倒れていた時も」
「そうよ。でもお礼はいらないわ。私たちは結局のところ、月の向こうから来たあなたを自分たちの都合で利用するのだから。……これを返します」
女性は少女の手のひらに小さな赤い髪留めを置いた。
「この髪留め、私が隠しました。あなたを一人にして、この泉に繋がる水脈のある、あのウロに落ちてもらうために。村はあの人に守られているし、あなたは水脈に中々近付かないし。それにいつもリンカやアーシェがあなたを守っていたから……強硬手段、ごめんなさいね?」
赤い髪留めを握りしめて、少女が首を振った。
女性が愛おしい気持ちを何も隠さずに言った。
「ライレットのお守りをありがとう。ちょっと変わった人だけれど、これからもよろしくね」
〈……ちょっと? ……さすがはリューシア様〉
ラーイが心の底から呟いた。
「さあ、ラティメリア。私を人形へ移してちょうだい。ほんの少しの間でも、久々にあの人の服が着られて嬉しいわ」
少女が小さく笑った。自分の中の感情が複雑過ぎて言葉に出来なかった。
もう、この人は、行くのだ。
一言だけ絞り出した。
「長服よ?」
「ふふ。良いネーミングね。私は好きなの。あのデタラメなデザインがね。今回も力作よね。あなたは気付いたかしら? 蔦のように見えて、これ全部文字なのよ?」
驚いた少女は、おっかなびっくり人形に近づいて、ドレスの裾を手に取って見た。
四の月の三日、私の娘が帰ってきた。目を覚ましてスズと名乗った。かわいい声だ。私の娘よ。
四の月の四日、かわいいスズのいらない記憶を封じた。あんな約束など思い出さなくていい。
四の月の五日、起き上がれるようになった。はじめて、笑った。かわいい。かわいい。かわいい。
……そうやってずっと刺繍は続いていった。
「え……コレ……」
「そう、あの人の『スズ日記』ね。あなたが村に来た日から出て行った祭りの日まで、毎日ね。そこからは精霊に報告させた度……。あら、そんなに引いた顔しないであげて? ちなみに規則正しく模様が見えるのは、毎日『かわいい』って必ず刺してあるからね」
ありえない。
少女たち四人の心がひとつになった。
「見た目は蔦、中身は日記、でも、その実は……」
「呪文」
女性と少女の声が重なった。
少女と女性はクスリと笑い合った。
「この人形はあなたの魂を模しているの。更にこの刺繍が記憶となって魂に重みを与えるわ。あなたの不思議な魂……扉を通り抜けてきた魂が必要だから、この人形なのよ。だけど、光の精霊を起こすには、実はあともう少し、あなたの魂に重みが要るの」
女性は少女の手に戻した髪留めを指差した。
「あなたの向こうでの『記憶』もくれるかしら?」
そう言って、女性の姿は再び燐光に包まれ、消えた。
別れはとても呆気なかった。
少女は目を閉じて心の中で別れを言った。
長がいつも少女のことを「私のかわいい娘」と言っていたからだろうか。少女の心に浮かんだ言葉は意外なものだった。
お母さん。
ひとつ息を吐いて涙を拭い、少女はリアルスズ人形に、戻ってきた赤い髪留めをつけた。
唯一生まれた世界から持ってきたもので、ずっと大事に身に付けていた宝物だ。
父が、気まぐれに買ってくれた、たったひとつの髪留め。
だが、もうお別れする時だと思った。
自分は確かに愛されていた。
そう思っていてもいいだろう。それを確かめる術はもうなく、否定されることはこの先訪れない。
自分はここで、生きていくのだから。
ここで、愛されているのだから。
「我が君……」
人魚が囁いた瞬間、泉の中島にある水晶が強烈に輝きだした。
〈……始まったわ〉
ラーイが呟いた。




