第五十一話 手を
「スズ!」
「は、はい?」
「その、こんな時に、こんなところで何だが……。俺は、スズのことが好きだ。俺と一緒にいてくれ」
アーシェの言わされた感半端ない告白に、少女はスンとなった。いや、心底引いてしまっていた。
(こんな時にこんなところで何だが、に激しく同意だわよ……)
さっきまでのドキドキは一体何だったのか。
少女が魂を飛ばしながらアーシェを見ると、その顔は真剣そのもので、しかもかなり緊張しているのがヒシヒシと伝わってきた。
刺客が襲って来た時でさえ、そんな顔はしていなかった。
そう思ったら、少女はとても冷静にアーシェと向き合うことが出来た。溜め息をついてだが。
「あたし、この世界の人じゃないよ?」
「そんなのとっくに承知している」
「ラティメリアの仲間になって、もう人間でもないよ?」
「なに?」
「水の中で生きていける水魔の仲間なの、あたし。だからアーシェに空気をあげられたのよ」
「……足がなくなるのか?」
(つっこむとこはそこじゃねぇ!)
トーマが呆れて、リクも溜め息をついた。
「さあ? たぶんこのままだと思うけど」
「なら、問題ない」
「アーシェは国の偉い人なんでしょ? あたしは、何の権力もないよ?」
「関係ない」
「あたし……」
ここでリクが切れた。
「だーっ! まどろっこしい! 臆病者と方向音痴のブタ半裸じゃ、くっつくのに何年かかってもダメだ!」
見当違いの方向へ突っ走るブタ半裸。そのままのアーシェのことなのでトーマが拍手した。
「スズ!」
「はい!」
あまりのリクの勢いに、少女勢いよく返事をした。
「アーシェにキスされて、イヤだったか?」
「……イヤじゃ、なかった」
「アーシェが死んで、もう会えなくなるのはイヤだったんだろ?」
「……うん」
「なら、言い訳するな! 色々な困難も、くっついてから二人で乗り越えて行け! 以上、分かったか!!」
「はい!」
次の獲物はアーシェである。
「アーシェ!」
「お、おう!」
「何者であっても、スズがいいんだな?」
「……そうだ」
「だったらさっさと、そこの茂みで押し倒してこい! それぐらいなら、待っててやる! 五分か? 十分か!?」
さすがの少女も切り替えしができなかった。
「リ、リクちゃん、五分は無理……」
トーマが大汗をかきながら、優しくつっこむが、リクは容赦しない。
「とっとと行け! エロ腹筋の本領を発揮してこい!」
アーシェが額を押さえて天を仰いだ。
「参った……降参します」
アーシェは息を吐いて気を取り直し、少女に手を差し伸べた。
その赤い瞳は少女だけをまっすぐ見ていた。
「俺の手を取ってくれ。それだけでいい。スズ、お前が何者でも関係ないんだ」
少女がアーシェを見つめ返した。
「俺を選べ、スズ。お前が、好きだ」
(怯むなスズ!)
リクは知らずに拳を握っていた。
村にいる時から、少女はそうだった。誰からも愛される資質を持っているのに、自分からねだって手を伸ばすのに、その手を握り返される直前になると壁を作って引っ込んでしまう。いつも、いつも、もどかしかった。
そんなリクをトーマが黙って見つめていた。
「あたし……」
「スズ、俺はお前の気持ちが少しだけ分かる」
アーシェは少女の言葉を聞かずに続けた。
「親にまっとうに愛してもらえなかったのに、愛してもらえていたはずだと、今も愛されているはずだと、思ってやしないか?」
「親に?」
突然話がそれたが、リクもトーマも黙って見守った。
少女はアーシェを見つめたまま、少し考えて続けた。
「思って、いるわ……ずっと。お母さんは、あたしを嫌いで置いて行ったんじゃないと。お父さんは、少し心が弱いだけで、それだけで。あたしのこと、ちゃんと考えてくれていたはずだって」
「最初に愛されるはずの親からつまづくと、うまく行かないよな。俺も、そうだ。今も、自分の気持ちが難しい時がある。亡き父に、兄に、今も嫌われたくない。誉めてもらいたい気持ちがある」
「アーシェ」
「だが、それじゃダメなんだ。周りの人間は『親』ではない。無条件に絆を求めることも出来ないし、求めに応じてくれるとも限らない。一つ一つ、失敗しても積み重ねなければ人間関係は作れない」
色恋沙汰からは方向がかけ離れているが、重みのある言葉だとリクは思った。
「俺の手を取れ、スズ」
心の渇いた部分に、雫が落ちた。
一粒、二粒。
キラキラとした想いの雫。
やがて、恵みの雨ように心が潤っていくのを、少女は感じていた。
「喧嘩しても、たとえ、道を分かつ時が来たとしても、お前に手を差し出したことを俺は絶対に後悔しない。嬉しい時も辛い時も笑う時も泣く時も、俺が側で見ていたい。一番近くで。一番早くに。それは誰にも譲りたくない」
スズ。
そう言って、アーシェが微笑んだ。
心臓を鷲掴みにされた少女が、泣きそうな顔で、そっとアーシェに手を重ねた。
その瞬間、リクは歓喜で震えた。
「あたしも、後悔しないわ」
この手を取ったこと。
この世界に来たこと。
命の恩人の約束を破ること。
二人は自然に身体を寄せ合い、手を繋いだまま人魚に向き合った。
「ラティメリア」
「……なによ」
覇気のない返事が返ってきた。
あまりの変貌ぶりに、少女がリクに問いつめる。
「リク、何言ったのよ?」
「ん? 話し合っただけだよ」
〈間違いなく、あの変態の血縁だわ……。聞いているこっちの心が壊れそうだったわ〉
トーマが目線を宙に泳がせる。何も聞いてくれるな、という意思表示である。
少女がラティメリアに駆け寄って、抱き起こす。
「とりあえず泉に行きましょう」
それを拒んで、少女の腕を掴む。
「黒竜を起こすわ。用事を済ませて、早くここから出て行って……」
顔を手で塞いで、泣き出してしまった。
「ちょっと~……アホリク! やりすぎよぉ。どーすんのよー……」
「やりすぎ?」
リクの気配が再び氷点下になった。
「どれだけの人が命を落としたと思うんだ。長の奥さんと生まれたばかりの娘は、明日も普通に一日が始まると思って眠りにつき、そのまま死んでいったんだぞ。皆、そうだ」
金槌で頭を叩かれたような衝撃が少女に走った。
大勢の人が亡くなった。
その言葉の漠然としたその死が、急に形をはっきりとさせ、少女にのしかかった。
その『黒竜の呪い』は今、自分の中にいる。
「あたしは、その黒竜がいなければ、今ここに生きていないわ。ラティメリアがいなくても、今ここにいないわ。あたしはラティメリアに何も言えない……」
「なら、黙っていろ」
「いいえ」
少女が一歩踏み出す。
「ラティメリアと私は対等よ。何を言ったか知らないけれど、撤回してちょうだい、リク」
その少女の言葉には強い意思が宿っていた。




