第五話 え、ブタ? 裸? ロープ?
月の扉を開く鍵を守る七つの王国は月鍵七国と呼ばれている。
時には共に歴史を刻み、時には敵対し、大陸の国々のバランスを守ってきた大国たちである。
王のいる都のことを「斗」と呼び、月の色をとって蒼斗、碧斗など、特別な都として呼ばれていた。
月鍵七国の中でもリーシェス王国の蒼斗ウルーは、特に智の世界最高学府と名高い王立学院があることから、学院生やそれを目指す者、様々な学術機関に勤める者など、老若男女、出身を問わず人が集まる都だった。
人が集まれば商売人もこぞって集まり、蒼斗は常に熱気に満ちていた。
また、志や才気ある者をおおらかに受け入れる一方、夢破れ都を去る者は引き止めない冷静な国民性をも持ち合わせていた。
少女にとってリーシェス王国の首都である蒼斗ウルーまでの道程は初めてではない。
長の用事に付き合う形で、長とリクと三人で馬を使って旅をしたことがあるのである。
少女はこの世界に来るまで、実際に馬を見たことも触ったことも無かったが、この国の一般的な移動手段が騎馬か馬車であるため、扱いを覚えなければならなかった。
少女はおっかなびっくり馬と接する内に少しずつ慣れたが、馬は賢い生き物で、性格もそれぞれである。時々馬たちに遊ばれながらも少女はその世話を覚えていった。
一人で馬に乗れない少女は長やリクと二人乗りをし、時には手綱を引いて歩きながら、村のあるフェーデレック王国から国を二つ越えたリーシェス王国までを三人でのんびりと旅したのである。
旅ではたくさん覚えることがあった。町の関所の通り方や国境の越え方、国々の貨幣の使い方など、生きていくために必要な様々なことを少女は学んだ。
もちろん国を越えるために必要な身分を示す証しも、その時に長から貰っている。
少女は服の上からその証しを握りしめた。ライレットから大事にしまっておくか、肌身離さず着けているように言われたその証しは、ガラスのペンダントだった。緑のガラスには複雑な光を反射する宝石のようなカットが施されていた。
このガラスを関所や国境の役人に見せると身分が分かるらしいが、精霊がらみの仕掛けは少女には理解不能だった。
「パスポートみたいなものね。これ目当ての盗賊もいるみたいだし」
生まれた国が与えてくれるこの証はまさに身分証で、名前や出身地はもちろん、職歴や賞罰までも各個人の情報が入っているのだという。
この世界には写真は無いため、顔写真で本人確認というわけにはいかないので、この証を持っている者が「この者」として扱われるのである。
力尽くで奪われたり、悪意を持って取り替え、別人になりすまそうとする者もいるが、そこは精霊がらみの不思議な仕掛けでバレるらしい。
それでも、後ろ黒い者たちは他人の身分証を欲し、バレるまでの間、他人になりすまして逃亡したりするという。
長からは、もしも奪われたり手元から無くなったりしたら、すぐさま役所に申し出るようにきつく言われていた。
このペンダントは、それくらい個人にとって大切な物であった。
ざわ。
急に木々のざわめきが大きくなった。
少女は口をつぐみ、辺りを見渡した。そっと荷物を持ち、焚き火から離れて木陰に潜んだ。
火を焚いていれば大抵の動物は近寄って来ない。来るのは、火を恐れない大型の動物か、動物でないものか。
(満月なのに)
少女は声には出さず、身動きせずに辺りを窺った。手にはじっとりと汗がにじんでいた。
(なにか、来る)
少女の緊張をあっけなく破り、それは少女の前をトッタッテタタタと通り過ぎた。
「え? ブタ?」
現れたのは、子ブタのような生き物だった。必死な顔で走り、それはまるで何かから逃げているようだった。
地面に座ったまま驚いて見送る少女に、後ろから怒号がかけられた。
「どけ!」
ブタを追った黒い風が地面を蹴り、座る少女を飛び越えた。
(うしろ!?)
少女が仰ぎ見た瞬間、それと目が合った。
(なんて、……色)
視線は一瞬。しかし少女は、時が切り取られた絵を見つめているように感じていた。
「きゃ!」
土煙が容赦なく襲い掛かる。少女は顔を庇うのがやっとで、何が起こったか理解出来なかった。硬く目を瞑っていると、やがて静寂が辺りを満たした。
「な、なんだったの……? 人、だったよね」
漆黒の中にきらめく赤い瞳と目が合った瞬間、体が強張った。
恐怖とは違う。畏怖とも少し違う。どの言葉も当てはまらない不思議な緊張だった。
少女は少し考え、立ち上がって土を払い、火の側に座り直した。
(全然、後ろから足音も気配も分かんなかった……。襲われてたら、終わってたわ)
気を引き締めなければならない。独りなのだから、自分で自分を守らなければならない。
一つ息を吐いて気持ちを切り替えた少女は、地図を広げて星を読んだ。数多光る星から目印星を見つけ出す。これも長に教わったことである。
「仕方ない。節約したかったけど、もう少し進んで街道で宿を取るか」
夜道になるが、月明かりがこれだけあれば歩くことは出来る。あと一刻も行けば宿場町に出る。
「迷った時は安全策、だわ」
危険を感じたまま野宿する程の無謀さは少女にはなかった。
不思議なことに、怯えている動物がいると、危険はその気配を逃さずに牙を剥くものである。ましてや少女には身を守る力も術もないのだから。
野宿の準備を広げていたが、少女はテキパキと片付け、火の始末をしようとした時である。
「火を消してしまうのか? ならば継がせてもらっても良いだろうか?」
またも少女の後ろから声がかかった。
振り向いて身構える少女は声の主を見て、別の意味で固まった。
左肩にブタの頭を乗せた上半身裸の男だった。ブタは既に命の気配がない。
男の上半身には、両肩から伸びたロープが胸の谷間で幾重にも捻られ、両脇へと伸び、一周回って腰で結ばれていた。
(これは……立派な変態!!)
男の赤い瞳が煌めき、にこやかに近づいて来た。
(あれ、さっきの、ブタ? 赤い瞳……この人、さっきの人? なんで、ブタを肩に乗せて裸縛りしてるの? しかも、なんかめちゃくちゃ嬉しそうな顔してる……)
呆然と、これは由緒正しい変態だ……なんて少女は現実逃避しかけたが、変態に遭遇しているのは自分である。
警戒むき出しの少女に気が付いて、男は「失礼」と言って軽く続けた。
「ああ。怪しい者ではないのだが」
『ぼくは怪しいです』なんて言う怪しい人はいない。むしろそう言う人が思いっきり怪しいのである。ましてやまともな格好でもない。
「火を、どうぞ」
少女はそれだけ言って荷物を持ってじりじりと後退った。
森を歩く者の鉄則として、火を熾したら必ず最後まで責任を持って消すか、始末を引き継ぐ後任を探さなければならない。小さな火でも山を焼く大火事に発展するからである。森での失火は、どの国でも重罪として扱われていた。
「すまない、助かる。実は昼から何もありつけてなくてな。やっと仕留めた獲物なんだ。捌くのに時間がかかるから、これから火を熾していると腹と背中がくっついてしまう」
言っているそばから男の腹の虫が暴れだした。その見事な音に、警戒していた少女は笑ってしまった。襲うつもりはないようだが、宿へと向かう決断を少女は変えなかった。
「では、これで」
火を譲り渡した男に短く別れを告げ、少女が背を向けた瞬間だった。
ごきゅうぅ。
「なんだ? 何の鳴き声だ?」
男がブタを背負ったまま剣の柄に手を掛け、辺りを見回した。
ぐおおおぉぉぉ。
「近い……。おい、何かいるぞ! 気をつけろ」
男が少女の背に声をかける。
ところが、少女は立ったまま動かない。
「どうした?」
不審がって男が少女に歩み寄ろうとしたが、少女がさせなかった。そのまま全力疾走で逃げ出したのである。
(は、恥ずかしい! ちゃんとご飯食べたのに! ブタを肩に乗せた半身裸男よりも豪快な腹の虫なんて、女子としてどうよ!? しかもなんかの生き物の鳴き声だって! ここはもう走って逃げて、さよならだわ!)
通りすがりの人である。二度は会うまい。
少女は走っているからだけではなく、顔を真っ赤にして半分泣いていた。なぜか猛烈に恥ずかしかった。
速度を緩めてふいに後ろを見た途端、少女は「ひ」と息を吸い、半泣きが本泣きになった。「ああああ」と言葉にならない悲鳴を漏らしながら、全力で疾走した。
少女の後ろには、ブタを揺らさないように低い重心で走る、赤い眼光鋭い半裸の男がいた。
「な、なんで追ってくるのよー!」
「ちょっと待て!」
怖い。
少女ははちきれそうな心臓を服の上から掴み、「待つわけないじゃん!」と足を止めずに悪態をついた。