第四十九話 俺は、スズが好きだ
静かな声は、もう一度少女に落ち着くように促した。
突然聞こえた声に少女は驚いた。ここは水の中である。
「誰!?」
少女の問いには答えず、声は淡々と少女に話しかけた。
「あなたは水魔なのでしょう? 落ち着けば、彼を助けられるわ」
「どうやって!?」
「まずは彼に空気をあげなさい。それからよ」
「だからどうやって!?」
「あなたは息をしているでしょうに」
「人工呼吸!」
少女は言うや否や、アーシェに口付けた。口付けたまま何度も何度も息を流し込んだ。
「そのままくっついていなさい。彼が吸い込んでしまった水に、身体の外へ出るよう命じなさい。……そう、それでいいわ。これで彼は陸にいるのと同じだわ」
言われるがままに少女は念じ、一拍置いて『そのままくっついていなさい』という状況を理解した。
「ええ!?」
アーシェから離れた瞬間、再びアーシェの口から空気が大量に漏れていった。少女は慌ててまた口付けして空気を送る。
(え、え、ええええぇぇぇ~っ!?)
少女は勢いでやってしまったが、口付けしたままでいなさい、と言われてしまうと、急激に羞恥心が込み上げてきた。それでも離すわけにはいかない。
二人は口付けしたまま、ゆっくりと水底にたどり着いた。
(どうなの……? このままって、どうなの!?)
少女の心臓は破裂しそうなくらい早鐘を打っていた。
アーシェを水底に座らせた格好で、両手で顔を包んで口付けをし続ける。アーシェの息が押し戻されてきて、呼吸をしているのが分かった。
「次は血を止めましょう。水を集めて傷口に圧をかけなさい。要は流れ出る先がなければ、血は出ないわ」
(どうやって!?)
「集中してイメージしなさい。あなたなら出来るわ」
(集中って!?)
目を開けると、まつ毛が触れ合う距離。しかも口付け中。ある意味舞い上がっている少女には、非常に難しい要求だった。
でも、やらなければ、アーシェが死んでしまうかもしれない。
少女は目を閉じて、想像してみた。
蛇口を指で塞いだとき。
川の上流に向かって進むとき。
少し深いプールに潜ったとき。
水の圧力で連想されるものを次々に思い浮かべてみた。
(血、止まって!)
少女は堅く目を閉じ、祈るように想像する。
「いいでしょう。それを保ちなさい。血は止まっているわ」
(よかった……)
「その集中のまま、水面へ向かう水流をイメージしてご覧なさい」
(光が揺れるあの水面へ、流れる……)
二人の体が水流にさらわれて、ゆっくりと浮かんでいく。
(このまま、水面へ……)
グイッ!
突然、少女は両肩に衝撃を感じた。
アーシェに両肩を押されたのだ。
「アーシェ!?」
意識を取り戻し、状況が分からずに混乱して目の前の少女を突き離したアーシェは、何かを喋ろうして再び溺れる羽目になった。
もがくアーシェを少女は抱き締めて、口付けをした。
(スズ!? 息が……出来る?)
アーシェが何回か呼吸をしたのを確認して、少女はゆっくりとアーシェから離れて、水面を指さした。
「あたし、水の中でも息が出来るの。その、だから、仕方なく人工呼吸をしていたのよ。……上へ行きましょう。途中で、息が切れる前に、また、その……」
顔を真っ赤にしてしどろもどろになっている少女を、アーシェは抱き締めた。
水の中で息が出来たり、話が出来たり、そんなことはどうでも良かった。
今、目の前に少女がいる。それだけで良かった。
アーシェは少女を見つめて、顔を近づける。
「空気……?」
少女は拒まない。
アーシェはついばむように口付けをした後、深く唇を重ねた。
(え、舌!? し、舌!? ……舌!?)
突然の深い口付けに少女が混乱していると、アーシェは少女の頬に触れたり、熱を帯びた赤い瞳で見つめたり、髪を梳いたりし、唇だけではなく、少女の額や頬や顎を優しくついばんでいった。
(こ、これは空気じゃない……)
さすがの少女にも分かった。
「ア、アーシェ、あ、あの……!」
少女は茹でタコになりながら、アーシェを引きはがす。腕一本を掴んで離れながら言った。
「空気を、送るためであって、じ、人工呼吸のためであって、そ、その!」
少女がわたわたしていると、いきなりアーシェの口から大量の泡が吐き出された。
「アーシェ!」
少女が慌てて距離を詰めて口付けをする。
アーシェが少女の身体をまた優しく抱き締めた。空気をもらう口付けの後、また優しく唇を重ねた。
これには少女が怒った。
「今の嘘だったの!? ひどい!!」
離れようとする少女を引き寄せるために、わざと息を吐いたアーシェは済まなさそうに笑った。
「馬鹿! あたし、あたし」
水の中だというのに、少女の目から大粒の涙が出るのが見えた。
「死んじゃうかと思って……」
少女はアーシェに抱き締められたまま、拳でアーシェをぽかぽかと叩きだした。
「馬鹿! 馬鹿! 何であたしを庇ったのよ!」
少女の拳を甘んじて受けながら、アーシェは少女をまた強く抱き締めた。唇を重ねようとするアーシェに少女は抵抗した。
「ヤダ! もう空気あげない!」
バタバタと手足を使って離れようとする少女を、アーシェは手を掴み足を絡め、あっさりと沈静化した。
「ヤダ!」
なおも抵抗しようとする少女の腕を自分の腕で押さえ、その手で、アーシェは少女の後ろ髪を優しく引っ張り、顔を上げさせ、唇を重ねた。
今度は更に激しく。
顔を背けようにも、少女はすべての抵抗を封じられていて、アーシェの為すがままになっていた。
吸われたり絡められたり、優しく撫でられたり、あまりの官能的な口付けに、少女は手足の力が抜けていくのを止められなかった。
唇を離し、ぐったりする少女を抱き締めながら、アーシェは自覚したばかりの思いと向き合っていた。
(俺は、スズが好きだ)
好きな女との口付けが、こんなに幸せなものだとは考えてもみなかった。
それと同時に、少女が自分のことをどう思っているのかが急に気になりだした。
話がしたい。少女と、もっといろいろな話を。
たくさん話してたくさん笑って幸せだと言って欲しい。
全部全部、自分の側で。全部自分の腕の中で。
それには目の前の問題を片づけなければならなかった。
アーシェは片手で少女を抱えながら、水面を目指した。




