第四十五話 望まれること望むこと
話は少し遡る。
「約束」を思い出した少女は、泉から中島へ上がり、光の精霊が眠る水晶の前に立った。
この世界になぜ来たかは分からない。けれども、少女は自分の大けがの理由を思い出していた。
あの夜、落ちたのだ。崖とも言える高さから真っ逆さまに。
未練がましくも、想いを寄せたあの人に会いに行った夜。会うことも叶わず、他人の口からその人に恋人がいることを知った。
その後、どこをどう、どれだけ歩いたのか。気が付いたら町から離れ、峠にさしかかっていた。慌てて引き返して、近道をしようと脇の遊歩道へ入ったつもりが、体が宙に浮いた。
街灯のない夜の道である。あるはずの地面がなく、悲鳴も出ず、意識は途切れた。
うっすらと意識を取り戻した時は、この泉のほとりだった。
誰かの話し声が聞こえた。
「このままだと死ぬわ」
「面白いわね。扉の隙間から落ちてきたのよ」
「助けないの?」
「どうして私が?」
「そうね、あなたは光の君以外はどうでもいいものね。……私が助けるわ。この子、月の加護も太陽の加護も受けていないわ。まっさらね。……この子の中になら、私、入れるわ。入って、私が命を繋ぎ止める。あなたは止めるかしら?」
「……いいえ。なんとまあ、ちょうど良いこと。この子の魂はとても不思議な色をしている。あなたが我が君の代わりになるのに足りない分、この子の魂で補って、……あと少し。いいわ、あなたをこの子の中に入れてあげる。でも、せっかく助けても永遠に近い時間眠ることになることを知ったら、この子、恨むんじゃない?」
「そうかもしれないわ。でも、感じるの。私には未来を見る目はないはずなのだけど。……この子、やがてこの世界を淡く照らす優しい光をまとうわ」
「ふーん?」
「それは『今』じゃない。今、私がこの子の中に入って、すぐにあなたの我が君の代わりになっては叶わない。けがが治って、この世界で生きて、この世界を知ることで、この世界を選ぶことで、起こることのようね。あなたの我が君にとっても、その方がいいのでは? この子がまたここへ来るまでは待っていられるでしょう? 後、それくらいは」
「……まあ、いいわ。私は面倒見ないからね」
今思えば、一人はラティメリアの声。もう一人は、今自分の中にいる『黒竜』の声だったかもしれない。優しく凛とした女性の声だった。
そして、意識がもっとはっきりとし、この泉に住む人魚と約束した。
命を取り留めた代償に、光の精霊の代わりにここで眠ると。自分の命を繋ぐために、自分の中に入った『黒竜』とともに。
自分が礎となるこの世界を見て回り、そしてこの泉に帰ってくると。
そうして、何かの力に弾かれるように少女は泉を追い出された。
命は取り留めても、大けがをして着の身着のまま森に倒れ、そのままでは命の危険があったところ、幸運にも村に保護されたのであった。
頭を打っていたからか、どうしてかその約束を忘れていたとはいえ、実に一年半もの間、約束を知らんぷりして楽しく生きていた。世界を見て回ったとは言えないかもしれないが、光の泉にいる以上、今更逃げる気は少女にはなかった。
あれだけ世話になった長やアーシェの家族、多くの人の命を奪った『黒竜』に命を助けられ、そして同化している自分を思い出した今、皆にどんな顔で会えばいいのか分からなくもあった。
何も無かったようには出来るはずもない。
ただ、心残りがあった。そっと水晶に触れる。美しいこの精霊の代わりに、もう眠らなければならないけれども。
「ねえ。もう正午の鐘はなったわよね?」
「そうね。試験の結果が気になる? いいわ、最後だもの。叶えてあげましょう。こちらへ」
人魚は少女をほとりへ呼び、水面をのぞくように言った。
「最後に、あなたが一番見たいものを見せてあげる。水面に触れて見たいものを念じてみなさい。見たいものの像が空気中の水分に反射して運ばれて水面に映るわ」
「そうやってあたしのことも見てたの?」
「そうよ」
「……遅くなってごめんなさい」
「いいわ。もう叶うから」
「助けてくれてありがとう。あたし、本当に、この一年半、生きてて良かった」
そう呟いて少女はそっと手を水に入れた。
雲のない青空を映していた水面に、幾つもの波紋が重なる。
しばらくすると、明らかに空とは違う色が映ってきた。
「広場?」
もやもやといろんな色が混ざって何か分からないが、少しずつピントが合ってきた。
ピントが合うにつれて、少女の顔がこわばる。
「へえ?」
人魚が面白そうにのぞき込む。
「違う」
少女が手を水面から上げた途端、水面は元の空を映した。
少女は息を整えて、もう一度手をそっと入れてみた。
(見たいのは合格発表! 勉強してきた成果!)
ぎゅっと目を閉じて念じる。
「想い人?」
ゆらゆらと水紋に揺れる水面には、森の中を走るアーシェの姿が浮かんでいた。
「違う!」
少女は手のひらで水面を叩いて像を消した。その弾みで、頭から泉に飛び込む形になった。
「いいじゃないの、別に。もう会えないんだから、最後に姿を見たかったんでしょ?」
「違う! ……あたしは、合格発表が見たいの!」
泉から頭だけを出して少女はムキなって答える。
「おかしなこと言うのね。それは見たいものを映す鏡みたいなものよ。嘘の吐きようがないわ」
「違う……」
(想い人? そんなはずはない。あの日から、あの人に拒否された日から、もう二度と誰も好きになれないと思った。こんな思いをするくらいなら、二度と、恋なんてしなくていい!)
それは少女の決意でもあった。
いつも求めて、玉砕する。親にしろ友にしろ好きな人にしろ。誰よりも人との深い絆を求めておきながら、誰よりも臆病に逃げてしまう自分は、誰か想う資格はない。
「何回やってもきっと同じよ。試したら?」
人魚のその言葉の通り、少女が何度手を触れて念じても、映るのはただ一人の男の姿だった。
「認めたら? 最後に見たい程、その人のことが好きなのよ」
「違う! あたしはもう誰も好きにならないわ」
少女は頑なに否定した。
「もう、ねえ。一度や二度フられたくらいでそんなに頑なになってしまったの? 頭堅いわね」
「何も知らないのに、そんなこと言わないで!」
どんな思いで生きてきたか。どんな思いで、今いるか。知った振りして話をされることが、少女にとっては苦痛だった。
「知らないし、知りたくもないけど? 第一、そんな風に思っているなら、水鏡に映るのはもうの人だと思うけど?」
「……え?」
「あら、間抜けな顔。光の粒は扉の隙間をも通れるはずよ? 月の向こうの太陽の一族の様子も見れるもの。あなたのいた世界の像も結べるはずだわ。ねえ? そんな頑なに思うくらいなら、今も想っているんじゃないの? それがもう次の人? 軽いわね」
人魚の言葉に少女は何も言い返せなかった。




