第四話 碧から蒼に代わる
「もう国を出る辺りか?」
お堂の中で地べたに座って瞑想していたライレットが呟いた。ここにいるのはライレット一人である。
〈ああ。ちょうど国境の手前あたりだろう。他の精霊ももう眠りにつく。途中までしか追えなかった。あの娘、邸を出る時、ちょっと泣きそうだったぞ〉
どこかからか返事がきた。声はするけれども姿はどこにもない。
「当然だな。慣れた土地を出て行かなければならないし、一人旅も初めてだろう」
〈いや、お前の服を見て。だから言ったろう。もはやお前の服は立派な嫌がらせだって〉
「黙れ。お前に私の崇高な芸術が分かってたまるか」
〈ふん、分からんでいいわ。あの娘はお前の服を見て泣いても、一人歩き出した時は気丈だったぞ。芯の強い娘だ〉
「当たり前だ。私の娘だぞ。この一年で教えられることは叩き込んだ。蒼斗へ行っても必ずやっていける」
〈あの娘は叩き込まれたつもりはまるでないがな〉
「ふふん。それも私のかわいいスズの素晴らしいところの一つだ。砂が水を吸うように、素直にこちらの知識を吸収していったからな」
〈足りなかったのは、言葉とここについての知識だけだったしな。あの娘、元の世界ではかなり高位な家の娘だったんじゃないのか? ほとんどの学問についての基礎は出来ていた。あれだけの学術的な教養を受けていたとなると、少なくとも、働かなくても食べていける地位だろう〉
「さてな。家畜の世話や糸を紡ぐとか畑を耕すことは初めてだったみたいだが。……鳥を絞めた時は一晩泣いていたな。しかし、料理は完璧だぞ。普段やっていないと出来ないことだ。スズは自分がいた所のことはほとんど話さない。私もあの子が話さないものを無理矢理聞き出す趣味はない。今、私の所にいてくれている、その事実だけが真実だ。……ああ、スズがお前の声も聞こえないのが幸いした。芸術性もなく、人のことを興味本位でほじくり返すお前と会話なんぞしていたら、碌でもない影響を受けていたに違いない」
〈ふん、そんなか弱い神経ではないだろうよ。お前の服を着て歩くぐらいなのだから〉
「なっ……」
〈もう寝るぞ。下らん話で時間を費やしてしまった。蒼究のにはよく言っておく。お前のことは気に食わんが、古からの馴事だ。お前の娘もまとめて面倒を見てやる。だが、忘れるなよ。あの娘には我々の力は何一つ及ばない。様子を見守り、報告してやるのが唯一出来ることだ。あの娘に直接危機を忠告してやることも、困った時に力を貸すことも出来ない。我々を頼りにするな〉
「分かっている」
〈ふん? なのによくも一人で行かせたな。山賊にでも襲われたら、あっという間に殺されてお終いだろうに〉
「かわいい子には旅をさせろと言うだろう。あの子は確かにお前たちの助けは受けられない。何かあっても自分の力で乗り切らなければならない。それは誰にも教えられることではない。自分で勝ち取るものだ」
〈気持ち悪いほど可愛がっていたのに、案外突き放すもんだな? ……何を考えている?〉
「私の守護精霊のクセに、私の考えが分からんのか? お前こそ冷たいな」
〈……分かりたくもないわ〉
「下世話な勘繰りをしていないで、もう眠れ、緑麟。一年、ご苦労だったな。次に目覚める時は『長服』が流行を超えて世界の一般的になっているさ」
〈やめろ、悪夢を見そうだ。あまり、一人で突っ走るな……よ。黒……の……ことも。次目覚める時は……、おま……えの……娘と話が出来る……といい……〉
最後の言葉は風に消えたように聞こえなかったが、ライレットにははっきりと分かった。
口の端だけでそっと笑って、悠久の時を生きる精霊からすると瞬く間の眠りについた友に応えた。
(ああ、そうだな。そんな未来になればいいのに)
ライレットは腰を上げ、お堂を後にした。
遠くで村人の歓声が聞こえる。空には少し冷たい感じがする蒼い月、蒼究月が輝いていた。
暗いはずの空が真っ青に透き通っている。実際の空は暗いままなのだが、まるで海を泳ぐ魚のように、たくさんの精霊たちが空を泳ぎ、青く見えるのだ。六年の眠りから目覚めたことを喜び、蒼い月が輝く世界を祝福しているのである。
何度見ても美しいその光景を見ながら、ライレットは祭りの会場には向かわず、トボトボと邸に向かった。
幼い頃からの友が眠ることには慣れている。しかし、邸にはもう少女はいないのだ。もう、少女が作る異国のご飯を食べることが出来ない。何よりも、あの笑顔を見ることが出来ない。
「寂しくて、死んでしまったらどうしよう……」
緑麟が聞いていたら鳥肌を立てていただろう台詞を言って、ライレットは頭を振った。
「スズはもっと孤独で、それでも頑張っているんだ。私がそんなこと言ったらいけないな。願わくば、蒼究月よ、我が娘が同じ行き先の旅人に出会い、連れ立ちますように……」
もしもこれも緑麟が聞いていたならこう言ったに違いない。
おまえ確信犯だろう、と。
それは一瞬だった。
「……本当に真っ青だわ」
空を見上げた少女の目に映るのは、碧の月ではなく、蒼い月。
本当に月の色が変わった。恐らく日付が変わると同時だったであろう。
少女はその空を泳ぐ精霊たちの姿を見ることはなかったが、一瞬にして月の色が変わるという、充分摩訶不思議な体験に声を失っていた。
「はー」
言葉にならない呟きの後、少女は蒼い月を食い入るように見つめた。
焚き火がパチンと大きな音で爆ぜた。
我に返った少女はひとつ息を吐いて、手馴れた手つきで枝をくべながら、また蒼い月を見た。
「クレーターの位置もちゃんと違うのね。本当に違う月なんだわ……」
やはりここは不思議な世界なのだ。
村にはいなかったけど、この先、魔法使いとか妖精とかも見る機会があったらいいと思った。精霊の姿は見えなくても、あの巨大ダンゴ虫のように、実体がある不思議な生き物たちならば少女にも見えるだろうから。
少女は太い枝から細い枝をむしりながら火にくべ、意識を現実に引き戻した。
「さて、と。蒼斗までは、てくてく歩くと三ヶ月。新月を三回越えなくちゃならないわ。何か蒼斗へ向かう団体がいたら混ぜてもらえないかな……」
今日は満月である。これから新月に向かって月の光は弱まっていく。
「満月の晩は月の力が最も強い時。魔物も息を潜める。清浄な気が満ちていのるから、賊も息を潜める、か。野宿もあと五日が限度ね」
ここは、フェーデレック王国の東の隣国へと伸びる街道から、一本外れた山の道。
少女は国境の少し手前で野宿の準備をしていた。元々国のはずれに位置している村からは、歩いても数刻の距離である。
少女は爆ぜる炎に一瞬目を奪われ、沈黙した。
一人で夜に村から出るのは初めてである。覚悟してきたこととはいえ、一人旅に心細さと不安が降り積もり、少女は知らず知らずに考えていることを声に出していた。何かしゃべって気を紛らわせていたかったのである。
「蒼斗に着いたら、まず仕事を見つけなくっちゃね」