第三十五話 涙あふれるのは
太陽の加護。
この世界に生まれた全ての命は『月』の加護を受けている。
それが、月の加護ではなく、太陽の加護を受けている、ということは。
「この世界に生まれた命じゃない、ってこと? あなたも違う世界で生まれて、精霊が見えないの?」
少女は当然の疑問を人魚にぶつけた。
「ご心配なく。私はこの世界が月と太陽に分かれる以前に生まれたから、どちらの加護も受けているわ。あなたは月の加護を受けていないから、この世界の精霊は見えない。だけども、水魔として太陽の加護を受けたから、同じく太陽の加護を受ける姿無き者たちは見えるわ。我が君の姿もね」
「月と太陽に分かれた? 我が君?」
どういうことか少女が更に質問しようとしたところで、二人の顔が水面に出た。
ちゃぷん、と小さな音がやけに辺りに響いた。
少女は目を細めた。
太陽に目が眩みながらも、美しい木漏れ日と紅葉盛りの木々が目に入った。
そして何よりも、湖の中島にそびえ立ついくつもの水晶の柱が異様な存在感を放っていた。
水晶は、まるで空から降り注ぎ、中島に突き刺さったかのような格好である。
森厳。
その神々しさに少女は口を噤んだ。人間の言葉など、ここではノイズでしかないと本能が告げていた。
無言で人魚に誘われるままに、水晶柱のある中島へ進む。
少女は不思議な感覚にとらわれていた。
初めてここに来た気がしないのである。
この森の匂い、空の色、水面に揺らめく水晶のきらめき。
何よりもこの神気というか厳かさは、他には無いものだと思った。
「あたし……ここを知っている?」
「そうよ。ほら、そこのマツのあたりにあなたは落ちていたのよ」
「ここに」
(月の扉の隙間から落っこちて、ここにいた?)
少女はそう言われても、やはり思い出せなかった。
「ああ……我が君。ようやく時が満ちたようです」
人魚がうっとりと水晶を見上げて言う。
「我が君って……? どこに」
少女は言い終わらないうちに息を呑んだ。
一番太い水晶の中にありえないものが見えた。
「人が!」
「人ではない。このお方こそ太陽の精霊である光の精霊。……我が君よ」
「光の、精霊」
少女は水晶の中にあるその姿に釘付けになった。
人の姿と変わらない。いや、違う。
人と同じ形をしているだけで、全く違う。
精霊が人と同じ姿をしているんじゃない。人が、精霊の形を真似しているんだと思わせる、模倣では決してない美しさがあった。
「光の精霊……聞いたことがないよ」
「もう眠られてから、どのくらい経つか数えるのも止めてしまったくらい前の話になる。長かった……。長かったよ。けれど、もうすぐまた美しい眼差しで、美しい声で、私を使ってくれる。私を側に」
人魚はうっとりと呟いて、爛々とした目で少女を見て手を招いた。
「さあ、コウヅキスズ? こっちへ来て」
人魚が少女に中島へ上がるように誘導した。
「え、何?」
「約束よ」
「だから! 何のことだか覚えていないの! ……悪いけど」
「私の目を見て」
「目?」
「私の名前を思い出すのよ」
「あなたの、名前?」
少女は言われたとおり人魚の目を見た。
見てしまった。
大きな目だ。瞳孔が細長いのが人外の雰囲気をビンビンに醸し出しているが、美しい目だと思った。
名前を思い出せと言われても、目を見たからといって思い出せるのであれば、とっくに思い出していると少女は不満に思った。
「あなたは水を操ることが出来るのよ。人間の体はほとんどが水よ。頭の中をうまく操りなさい。記憶は忘れるだけで、消えはしないんだから」
「頭の中って、何言っているの」
「思い出そうと、もっと真剣に考えればいいのよ。早く」
「ずっと考えてるよ。でも思い出せないんだもん」
「いいえ、思い出せるわ。水魔となった今なら」
人魚が少女に勢いよく近づき、またしても口付けをした。
驚く少女のまつげが人魚のそれと触れ合うほど近くで見つめ合う。
少女の頭の中の何かがはじけた。
それは、少女を守るために閉じられた記憶の蓋。
蓋を失った記憶は、一気に溢れ出した。
「……ラティ」
静かに少女が言った。
「スズ、おかえり。光の泉に、おかえり」
人魚が少女に抱きついた。
最初から忘れてなどいなかったように、少女の記憶は滑らかに繋がった。
「ラティメリア」
少女ははっきりと人魚の名を口にした。
「さあ、スズ。約束よ」
「ええ。……そうね。約束したわ」
少女の目から涙が溢れ出した。
恐怖でも後悔でもない。
複雑な思いが心を渦巻いていた。
(もう、会えない)
更に涙が大粒になってこぼれ落ちた。
(だけど、皆の為になる。あたし……役に立てる)
学院に入学は出来ないけど、はるか未来、目覚めることがあっても、きっともう誰もいないけど。
寂しい気持ちが一番大きかったかもしれない。
(もっと一緒にいたかった)
誰と?
(皆と、よ)
スズ。
(リクと……)
スズ。
(長と……)
スズ。
(アーシェ、もうあなたに会えない……)
声を上げて泣く少女を慰めることもなく、人魚は少女を離して、手を引っ張って一緒に中島へ泳ぎ出し、ウキウキしながら言った。
「忌々しいあの男が封じた記憶も思い出したことだし」
少女は嗚咽で返事も出来ない。そんな少女の様子など、もうどうでも良いとばかりに人魚は続けた。
「スズ! さあ、我が君の代わりに……黒竜と共にこの泉で眠ってちょうだい」




