第三十四話 人間、やめたくなかった
もがくたび、ごぼごぼと肺から空気が抜けるのと同時に水が入ってきた。
あまりの苦しさに暴れるが、余計に水を吸い込むだけだった。何かを掴もうと両手を伸ばすが虚しく水を掻くだけ。
水面がどんどん遠くなるのが分かった。意識が遠のくのも分かった。
もう足掻く力が無いだけかもしれないが、不思議な程冷静に、少女は、ああ、これで死ぬのだ、と思った。
(アーシェ……リクも、怒るかな……)
食べられて、きっと欠片も残らない。『行方不明』のままでは、きっといつまでも捜してしまうだろう。少女は本当に申し訳ないと思った。
人魚が少女の足から手を離して、少女の目の前にスイッとやって来た。鼻と鼻が触れ合うほど近くで少女を見る。
髪の毛がまるでそれ自体が生きているかのように、ゆらゆら揺らめいていた。そのゆらぎが人魚の美しさに輪をかけていた。
(きれい……あたしを助けたって言ってた……まだお礼してないわ)
今まさにその口を開け、自分を食べようとしている相手にお礼することを考えていることがおかしくて、少女は微笑んだ。
死んでいたかもしれない自分を助けたと言った。それが本当かどうかは覚えていないけれど、本当だったら、その恩が巡り巡って、今、命を差し出すことで報いる番かもしれないと思った。
目はもう開けていられなかった。口だけで、ありがとうと形作る。
ずっと生きることに拘ってきた。
あの子は不幸な子、そう言われるのが心底嫌だった。
生きている以上、走り続けなければならない。それを自分で終わらせる思い切りという名前の勇気はなかった。奪われる形だけども、志半ばだけども、これでもう欲しいものが手には入らず、もがき苦しむこともない。
好かれたい人に嫌われる恐怖心もない。
もう、苦しみは感じなかった。
魂だけになったら、アーシェたちに会いに行けるだろうか。長や村の皆、宿の皆に。
もしかしたら月の扉とやらだって通れるかもしれない。そうしたら、お世話になった人たちに会いに行こう。
父のように接してくれた人。弟のように妹のように一緒にいた人。
どうしてもその瞳に自分を映して欲しくて、みっともなくすがったあの人に。
それから消えよう。
最期にそう考えて、少女は意識を手放した。
少女の意識が無くなったのを見て、人魚は一瞬怯んだように離れたが、またすぐに近づいて、自分の唇を噛み、血のにじむ唇で少女に口付けをした。深く、血を飲ませるように。
「!!」
少女の眼がカッと見開いた。
まるで火の固まりを無理やり飲み込まされたかのような衝撃に少女が苦しみ、両手で胸をかきむしる。
(なに!? 何コレ!?)
もがく少女の肩を抱き、人魚が更に水底を目指した。ぐんぐんスピードを上げて泳ぎ出し、少女にものすごい水圧がかかる。
少女の目が回る。膝を抱えて苦しみをやり過ごすが、嗚咽を我慢出来ずに、最後には胃の中が空っぽになる程、少女は吐き戻した。涙も鼻水もヨダレもただ漏れだったが、水中でそんなこと気にしてられる状況ではない。
そんな状態のまま、人魚に引っ張られながら少女は水底に着いた。沈んだというよりも、到着したといった感じだった。
そこは不思議なことに仄かに光が射し込んできらきらと明るく、水が透明で、まるで水中にいるのを忘れてしまうかのような光景だった。
「やっぱり死ななかったわね。それでこそ、約束を果たしてもらえるってものね」
少しだけ熱さが収まった胸を撫でながら、少女が声を絞り出して言った。
「……やっぱりって!? 何コレ……! 一体何したのよ!」
「水魔の血肉を食べて生き残った動物は、仲間になるのよ。耐えられなければ死ぬけれどね」
「死!?」
死を覚悟して受け入れたことなどすっかり忘れて、人魚に猛抗議しようとした少女は、自分の異変に気が付いた。
少女は自分の足で水底に立っていた。水流も水圧も、ものともせずに。
水の中で言葉を話していた。人魚の言葉を聞いていた。
水を吸い込み、あれだけ苦しかったのに、何事もなかったように息をしていた。
それは人間の自分にはあり得ないことだった。
「あ、あたし……」
「そうよ、あなたはもう私の仲間よ。水の中でも陸でも生きていける。それに、けがだってすぐに治るわ」
少女は自分の身体を見下ろした。全身の痛みなど、胸の熱さにとうに忘れていた。鱗は生えていない。足はまだある。あるが……堪らずに叫んだ。
「あたし魚になっちゃったの!?」
人魚が呆れて言い返した。
「魚、とは言ってくれるわね。私は水魔の中でも高位なの。魚どころか人間と比べるのも無理なくらいね。そもそも魚は陸に上がれないじゃない。精霊も魔法も分からない落月のあなたには区別出来ないかもしれないけれど。そうね、分かるように言ってあげると、あなたは人間なんだけど、水の中でも息が出来て水脈を通ることが出来る特技を身につけたの。分かる?」
「それってもう人間じゃないじゃない……」
「そうね。だから何?」
人魚は実ににっこりと愛らしい笑顔で聞き返す。
少女は人外に人間の気持ちを汲んで欲しいというのは無理なのだと悟った。
スン、と冷静になった少女は、気になった違うことを聞いてみることにした。
「……落月ってあたしのこと?」
「そうよ。あなたみたいにどこかの月から落ちて来た人のことを、まとめてそう呼ぶのよ」
「あたし以外にいるの!?」
少女の胸が躍った。純粋に驚いてもいた。他にも自分のような人がいる。そう聞いただけでその人に会わなければと思った。
「いるわね」
「どこに!?」
「さあ?」
少女の質問にまともに答えてくれる気がないのか、どうでもいいのか、人魚は少女の聞きたいことをことごとくはぐらかしていた。
きっと、後者だろうと少女は思った。
「さあ、上がりましょう。そして約束を果たしてちょうだい」
「だから約束って何?」
その約束にしても、何度聞いても人魚は教えてはくれない。
少女は質問を変えた。
「上に行くって、何であたしを水に引っ張り込んだのよ? またあの穴に戻ってどうするの?」
「穴? いいえ。ここはもう光の泉よ。まわりを見てご覧なさい。こんな美しいところは他にはないわ。私たちはとうに水脈を通って移動したわよ」
少女は周囲を見て、確かにと思った。
穴の水たまりで人魚に相当深く引きずり込まれたのに、見上げれば光きらめく水面がすぐそこにあった。透明度の高い水は美しく、穴の中とは思えないくらいどこまでも見渡すことが出来た。
「どういうこと?」
「言ったでしょ? あなたはもう私の仲間。水脈さえ繋がっていれば、どこでも水が運んでくれるわ。上がりたいって思ってごらんなさいよ。自由に動けるはずよ」
少女は半信半疑で水面を見つめて、あそこへ行きたいと念じてみた。
「わっ!」
ふわりと水が流れを作り、少女の体を押し上げる。手も足も動いていないのに、誰かに手を引いてもらっているように、少女は浮かんでいった。
「あなたはもう水の中で息も出来るし、移動も出来る。深いところへ潜っても水はあなたの味方だから、押しつぶしたりしないわ」
「水の精霊が運んでくれているの?」
「あなた本当に何も知らないのね。水に宿る精霊はいないわ。なんでかは聞かないでよ? それが当たり前なんだから。水を統べるのは、水魔であるこのあたしよ」
「水魔、の仲間になったのなら、あたしにも精霊が見えるようになった?」
「ご期待に添えなくて悪いわね。水魔という生き物は月の加護を受けていないの。水魔は太陽の加護を受けているのよ」
「太陽の加護?」
少女には初めて聞く言葉だった。




