第三話 少女の決意
空は茜色から刻々と紫紺に染まり、月がまばゆい輝きを放ち始めた。
少女は次に空に輝くのは六年後の碧の月を仰ぎ見た。
「祭りに出ても、肝心の精霊の姿がまるで見えないんじゃ、ねぇ」
祭りに出ない理由はそれだけではない。
何も出来ない自分が、皆のために出来る唯一のことを実行に移す日が、今日だからだ。
本当はもっと早くするつもりだった。
けれども皆に甘えて、ライレットに甘えて、ずるずると、とうとう今日になってしまったのだ。
明日では間に合わないかもしれない。もう、今日しかない。
少女はチラッとライレットが用意した『スズが一番かわいくなる服と飾り』を見た。
「ホントに、長のセンスって」
少女は、どうやってこの世界にやってきたのか、そしてこの村に来たまでのことをまるで覚えていない。
保護された時の少女は、体中の擦り傷と何本かの骨が折れているという重傷を負っていた。快癒した今も、少女の背中には傷跡がある。もちろん、少女は何故こんなにけがをしていたのかも覚えていなかった。
少女は傷が癒えるまでは邸から出なかったし、「え、なにこれ……」という内心はさておき、これがこの国の『普通』だと疑わずに、ライレットの用意した服を着ていた。
「なんで服の模様に、鍋なのよ。しかも両手鍋? なにこのヘラと包丁は? あー、鴨が逃げてるわねぇ……。よく刺繍したわね。忙しかったろうに」
ライレットの忙しさは一緒に住んでいる少女が一番よく知っていた。ここ二ヶ月はまさに分刻みで仕事をしていたのだ。一体いつ時間を作ったのやら、肩から腰にかけて見事な刺繍である。主題はともかく。
「首飾りは、なに? これ、もしかして、ネギ?」
鴨とネギ。鍋でコトコト煮込むとおいしい料理になる。
「長の好物じゃない……」
もう何も言う気にならない。最後は脱力である。元々祭りに出るつもりはないが、益々行く気がなくなった、というよりもこれでは行けないだろう。
脱力した少女は静かに笑っていた。
ライレットがどんな顔して刺繍してたか想像すると笑うしかない。
この非常にセンスの偏ったライレットの用意する服たちを『長服』と呼んで、『普通ではない』と気が付いた時から少女は決して外には着ていかなかった。
ただ、邸の中でだけ、ライレットが喜ぶので日常的に着てはいた。
少女が邸に来てからは家事のほとんどを少女が受け持つことになった。
それ以前はリクや村の皆が交代でライレットの世話をしてくれていた。それ程家事が苦手なライレットが、唯一得意とするものが何故か刺繍である。
一針にどんな思いを込めて縫ってくれたかを思うと、少女の胸は締め付けられ、ぐっと涙を堪えた。
「急がなくちゃ」
あまりに温かいから。皆が、あまりに優しすぎるから。迷惑をかけるかもしれないから。
少女は寝台の下に隠してあった荷物を取り出した。
「長、みんな」
荷物をしっかり握り締め、あらかじめ用意してあった手紙を机に置く。少女が自分で木の繊維からすいて作った紙で書いた手紙である。
言葉を覚え、常識を覚え、お小遣いをためて、あとは自分の心が定まるだけだった。
何も返すものがない。どんなに優しくされても、どんなに大切にされても、何もしてあげられない。それでも何かしたくて、少女は考えて考えて、一つだけ皆のために出来ることがあることに気が付いた。
それは、ここから出て行くこと。
(あたしはどうやら『悪いもの』ではないらしい。だけども、本当に? そうならば、この世界にとって一体何者なの?)
今年、この国には、国全体を守護する碧の月が輝いていた。
月が代わるとどうしてもその力は弱まるという。
今までがそうだからといって、守護が弱まるこれからも、少女は自分が『悪いもの』ではないままでいられるか、不安に思っていた。
この世界には精霊や魔物など、人ではないものが多く住んでいるが、少女は間違いなくただの人間である。
魔物にも良いものと悪いものがいる。
良い魔物の『良い』は、主にそこに住む人間に悪さをしないという意味だが、村にたびたび現れる巨大ダンゴ虫(本当の名前は不明)のように、過剰に農作物を荒らすわけでもなく、人間に危害を加えるわけでもなく、完全に生存圏が分かれているものもいる。こちらが襲わなければ、そのうち大人しく帰っていく。
『悪い』魔物は、人間とは決して共存できない存在。肉食で人を襲うものや、性質が悪いのは、人間の負の感情が大好きで争うように仕向けるものもいるという。
魔物にも色々いる。人間にも色々いる。
自分は本当にまわりにとって、大事な人々にとって『悪いもの』ではないのか。
そもそも、あまりに異質な自分はこの世界に一体なぜ来てしまったのか。
それを調べに行く。探しに行く。見つけに行く。
それが、唯一自分に出来ること。
そう、少女は決めたのだった。
「今までどうもありがとう」
少女は玄関を出て邸に向かって一礼した。
出発を誰にも言わなかったのは、少女のせめてもの意地であった。
また、逃げでもあった。
ライレットをはじめ村の皆が「出て行くなんて!」と止めてくれるのは、自惚れではなく、分かっていたから。その手を振り払うほどの気概が自分にあるとは思えなかったから。
(こんなんで泣いてどうする。自分で決めたことよ)
少女は気を引き締めて邸に背を向けた。
行く先は決まっている。
もうすぐ昇る蒼い月が守護する国、リーシェス王国へ。
大陸随一、この世の智の全てが集まるとされる都へ。
少女は明かりも持たずに一本道を歩き出した。唇を引き結び、一度も振り返らなかった。