第二十九話 運命
ゆらーりゆらり。
気持ちのいい風が吹き、優しい手が揺り籠を揺らす。
その揺り籠の中に少女はいた。
温かい微睡みが少女を満たしていた。
苦しみも悲しみも忘れて。
生まれてからこのかた、こんなに優しい眠りはあっただろうか。
母親は、記憶もない幼い頃に酒まみれの父と自分を残して出て行った。
父親は真面目に働く時期もあれば、酒におぼれクビになり、引き籠もることも多かった。
結局のところ、自分が働くしかなかった。
歳をごまかして働き、バレてクビになったり補導されたりすることが何度もあった。
それでも働かなければ、飢えて死ぬだけだった。
役所に見つかる度、父親と共に逃げた。
置いていけばいいのに、連れて行かれた。
何度目かの補導の後、いつも自分を追いかけ回して補導し続けた刑事が、腹を空かせて着の身着のまま街をさまよう姿を見かねたのか、家に呼んでくれた。父親に知れたらまた逃げるしかない。
その刑事は奥さんを亡くしたばかりで、小学生の息子と二歳になる娘と暮らしていて、こう言った。
うちで働けばいい。給料は学費と生活費だと。
父親はアル中から抜け出せず、その内どこかの施設に入り、自分の意志では出てこられなくなった。保護者を失った未成年の自分は、自分も施設に入るか、誰かに引き取ってもらうしかない。働いて自立するには、歳が足りなかった。
断ることは考えなかった。
何だか小難しい手続きが終わって、あの家に住み始めたのは十四の春だった。
母親を亡くして悲しみの底にいる二人は、警戒した目で自分を見て、長い間懐くことはなかった。それでも、自分が作るご飯は残さず食べ、名前を呼んでくれるようになっていた。
馴染み始めたあの冬、刑事の亡くなった奥さんの弟が訪ねて来た。七つ年上の指の綺麗な人だった。ヴァイオリンが得意で、音楽で食べていけるようになりたいと、はにかんだ笑顔に墜ちた。
その一瞬で恋をして、中学を卒業した春に散った。
そのことから、なんだか刑事の家族ともぎくしゃくしてしまい、逃げるようにその家を出た。
オマエハ ヨソモノ ナンダ
そう言われる前に。
思い出すだけで胸が苦しい。
遠くに逃げたかった。
もっと自分が大人だったら、もっとうまくできたのかな。
他の誰かだったら、きちんとあの居場所を手に入れられたのかな。
あたしだから、だめだったのかな。
最後に、最後にするからと、一目会いたいと彼を訪ねたのが、いけなかったのかな。
温かい手がおでこを撫でてくれた。
今は眠っていたかった。
何か大事なことがあったような気もするけれど。
この眠りを手放す気にはなれなかった。
「攫われたと考えるのが妥当だろうな」
トーマが冷静に呟いた。
「この短時間で!」
アーシェが焦りを口に出した。
「我々が甘かったと言うべきでしょうね。仕掛けるとしたら学院への道中と思い込みがありました。それも我々が一緒であれば防げるはずでしたが。狙っていた連中は一番弱いスズが一人になるのをずっと待っていたと見るべきでしょう。……そしてその通りになった。どうしますか?」
バッファがアーシェを宥める様に静かに言った。どうしますかと聞きながら、更に目でアーシェに聞いていた。
こうなったからには、スズを切り、我々だけでも学院へ行くべきだ、と。合格していれば、夕方五つの鐘が鳴るまでに正門をくぐらなければ入学資格は取り消されるのだから。
アーシェが答えずに沈黙していると、宿の主人がひとまず会議室への移動を提案してきた。
剣呑なオーラを醸し出す男の集団は一種異様でこの上なく目立つ。ここは宿の正面玄関で、他の受験生や一般客も通るのである。現に、何事かあったのかと注目を浴びてしまっていた。
「いや、このまま出発しよう、スズは……」
精霊の話に耳を傾けていたリクが息を吐いて言った。精霊に何かを願うことには精神力が必要になるが、リクは複数の精霊を半ば無理矢理呼び止めて、少女を探していたのである。全身汗に濡れ、息が荒くなっていた。
「リク? 何を言って」
アーシェが訝しんでリクの言葉を遮ったのをトーマが止めた。
「待て、アーシェ。……何か心当たりがあるのか?」
トーマがアーシェを後ろに下げ、リクの前に進み出た。
「犯人のことなんか知らない。でも、オレはスズのことは知っている。もうここにはいないんだったら、どこに行ったか、気配をたどることは精霊にも出来ない。……それに、意識が無いんだと思う。意識があれば、助けを呼ぶ」
「今まさに呼んでいるかもしれないだろう! 周りに助けてくれる誰かがいるとは限らない!」
アーシェがもどかしげに、声を押さえながらも語尾を荒げて言った。少女を探さず、自分たちだけ合格発表の場に行くこと、そして合格していたとしてそのまま入寮することは、断じてあってはならないとまで思っていた。
元はといえば、朱麗の事情が原因で、少女は巻き込まれただけなのだ。誰よりも努力していた少女を放っておいて、自分だけ入学するなんて、アーシェには考えられないことだった。
その様子をバッファが見て溜め息をついたが、何も言わなかった。トーマもである。
「怒るな。ぶたはんらへんたいふっきん」
リクが息を整えながら呟くように言った。
「ぶたはんら……なんだと?」
「スズの朱麗人に対する総称。旅の途中で上半身裸でブタを背負った赤い瞳の緊縛男に塩を分けてやったんだと」
アーシェが目を見開いた。
その顔を見て、リクも目を見開いた。
(……やめろよ? 「それ、俺だ」なんて安っぽい運命みたいなこと、言うなよ……?)
「それ、俺だ」
ぱあぁとアーシェの顔が驚きと喜びに輝いた。
「リーシェスを目指す途中でトーマたちが何故かいなくなって一人になったんだが、腹が減って、はぐれブタを捕まえたんだ。捌ける場所を探している時に焚き火を起こしている人がいて、声をかけたら親切に塩をくれた。そうか、確かに女性ではあったが、スズだったか」
偶然を喜んでいるアーシェの横でトーマが「お前が勝手に迷子になったんだろうがよ!」と怒鳴っていた。
リクはスンと引いた。
「なんか、偶然だね! で丸めてるけど、裸でブタ背負って塩欲しさに追いかけて来たって言ってたけど?」
アーシェが心外そうな顔をした。
「裸、裸というが、ちゃんと下は履いていた。暑いしブタで汚れるから上衣を脱いでいただけだ。そんなに変態扱いしてくれるな」
「じゃ、なんで逃げたの? あの時焚き火のとこで合流したの、オレだよ」
「そうなのか。まあ、逃げたといえば逃げたか。連れがいたとなれば肉の取り分が減る。俺は腹が減っていたんだ」
「なんちゅー理由だ」
リクがげんなりした。
「塩の礼もあるとは、益々スズを放ってはおけない」
アーシェが決意を込めてリクに告げた。
そのアーシェの様子に、リクは「ん?」と小さな疑問を抱いたが、小さく息を吐いて顎をしゃくって馬車に乗るよう促した。
「詳しいことは馬車で話す。オレたちが動くのは正午の鐘が鳴ってから、無事に合格していた後だ。それまで、何のトラブルも起きてはいない。いいな?」
リクがアーシェにきっぱりと言った。
「……なるほど、それが一番だろう」
すぐさまトーマが頷いた。
「まさか、蒼軍を?」
バッファが少し声を低めて聞く。物騒な話をするかの様に。
「そ。この人数じゃ探すの無理。さ、乗って行こうぜ。あ、用事ってなんだ? 急ぎか?」
「む、俺だけ事態が飲み込めていない気がする! 説明してくれ!」
「いいから、乗れ、変態ぶたはんら。上裸で緊縛って、最低な出会いだな、おい」
トーマにまで変態扱いをされて、更に憤慨するアーシェをバッファが「まあまあ(本当のことですから)」と宥め、一同は宿の主人に「スズは知人と先に行ったようだった」と、かなり苦しい言い訳をして、宿を出発したのである。




