第二十六話 抜け目のない腹筋
食堂は静まり返っていた。
朝食の賄い担当もまだ台所には来ていなかったので、少女はかまどに火を入れ、準備を始めた。
少女は様々な果物を手際よく切り、生のままで使うものの他は甘く煮付けた。冷ましている間に勢いよく生クリームをたてる。生地は昨日のうちに焼いて、よく冷やしておいた。その生地の上に甘さ控えめの生クリームと色味を考えて果物を並べ、丁寧に巻いた。それを十五本も作り上げ、一人分ずつにカットしていった。宿の従業員の皆の分である。
アーシェたちにもと考えたが、出発前にお茶する時間がないだろう。
「おはようスズ。早いね。なにこの棒っこみたいなの? お菓子?」
顔なじみの調理師が食堂にやってきた。朝食担当なのだろう。
「おはよう! 台所借りてたわよ。もう終わったから、ありがと。これはロールケーキっていうの。お菓子の一つよ。今日でお別れだから、皆にお世話になったお礼で作ったの」
「へえ! 楽しみだな! スズの作るものはみんな珍しくておいしいからな!」
「ありがと。十時の休憩の時にでも皆で食べてね。なまものだから今日中にね」
「分かったよ。しかし、寂しくなるなぁ。合格したら、休暇には寄ってくれよな」
「ありがと。受かったらね。落ちたら一度帰るわ」
「……また来る?」
「もちろん。一度落ちたくらいじゃ諦めないわよ」
「不吉なこと言ってんじゃないよ! とっととみんなのご飯を作りな」
「マリア! おはよう!」
調理師を一喝して食堂に入ってきたマリアが、スズを見ておやおやと言う顔をした。
「おはようスズ。朝から良い匂いさせてるね。こんな日まで働かなくてもいいだろうに。荷物はもうまとめたのかい? そのまま寮に入るんだろ? まだ何か残ってたら手伝うよ」
「そのために早く来たの? ありがとう! でも、もうほとんど終わったよ。後は宿のご主人に挨拶するくらい。皆には昨日の晩御飯の時に挨拶したし。あとは正午の鐘を待つのみよ」
宿から学院の正門までは歩くと一刻半はかかる。ましてや荷物を持ってとなると、もっとかかるだろう。早い朝食を食べたら早々に出発するつもりでいた。
「そう」
なら、とマリアは少女をぎゅっと抱き締めた。
「マリア?」
「スズ、今日で一旦お別れだね。休みは帰っておいで。うちの子どもらも楽しみにしているから。精霊が見えないからって、声が聞けないからって、馬鹿にする奴がいたら言うんだよ。あたしが闇討ちしてやるからね!」
少女は何度か休日にマリアとテッドの家に招待してもらったことがある。三人の子どもたちは少女よりもリクによくなついて引っ付いて回っていた。リクはちょっと苦手そうにしていたが、悪い気はしてないようだった。
「闇討ちって」
本当にしそうで怖い。少女は苦笑いしながら、小さくアリガトウと呟いて、ずっと聞きたかったことを尋ねてみた。
「ねえ、マリア。あたしが精霊の加護を受けていないのって、怖くないの?」
「……全然? と、言ったら少し嘘、ね。得体は知れないわよね。だけど、スズ、あんたがいい子だってことはすぐ分かるもの。この宿の皆はあんたのことが好きよ」
「マリア」
やることはやってきた。試験自体も全力で取り組んだ。しかし、それでも合格には及ばなかったら。この一週間、やはり不安が頭をよぎる。
マリアは最後に更に力強くぎゅっと抱き締めて、ばっと離した。
「さあ、旦那様に挨拶して、行っておいで。やりたいことがあるんだろ? スズにしか出来ないこと、やってくるんだろ?」
そう言ってマリアは少女の背中をバンバン叩いた。
村の人も、ここの人も、なんて温かい人が多いのか。綺麗で美しいこの世界。地に足をつけて生きている人たちのなんて美しいことか。少女は心からそう思った。
一度目を閉じ、息を大きく吸ってから、少女はマリアに言った。
「行ってきます!」
マリアは力強く頷いた。
「おはよう。早いなー、みんな。お、それ作ったのかー! オレの分もある?」
リクも食堂に下りてきて、少女の作ったケーキを一切れ奪って食べた。
「あんた朝からケーキなんてよく食べられるわね。それでリクの分お終いだからね!」
「相変わらずうめーな。食べたもん勝ちだろ。さ、主人に挨拶しに行こうぜ」
「あんたねー。みんなのために作ったのよ」
ぐちぐち言いながら二人は食堂を出て、宿の主人に挨拶に行った。
宿の主人は快く二人を迎え入れてくれた。朝早くから既に仕事をいくつも片付けた後のようだった。
「お忙しいところすみません」
「いえいえ、私も一息つくところです。お茶はいかがでしょうか? どうぞおかけください」
二人はありがたく頂きますと答え、椅子に座った。
宿の主人は手際よく茶器を扱い、よい香りの紅茶を入れてくれた。
「何事も無く本日を迎えられて、本当にようございました。これも薔薇の宮様のおかげでございますな」
二人は思わぬ言葉に紅茶を吹くところだった。何とか堪えて、顔を見合わせた。それに気がつかず、宿の主人は話を続けた。
「お二人を使用人に、とおっしゃられた時にはどうなることかと思いましたが、さすがは薔薇の宮様。私などの思い届かぬところにいらっしゃいます」
たまりかねて少女が口を出した。
「あの、それはどういう?」
「はて、どういうとはどういう? ……もしかしてご存知なかったので? 最初の毒きのこの後、薔薇の宮様からお二人がどうやら巻き込まれてしまったので護衛が必要だと申し出られまして。毒きのこを入れた犯人は捕まえましたが、他にもいるだろうし、お二人を何とか利用しようと、利用できなければ……危害を加えるだろうと。事実、この宿はお二人のおかげで何度も助かったと、薬草に詳しいその道四十年の庭師のソンドンが申しておりました程。おじょうさまは攫われてしまえばなす術もないであろうし……。それを見越しておられたのでしょう。使用人はいい返事がもらえなかったので、部屋を隣にしてくれとおっしゃられまして、常に側にいた方が守りやすいと」
少女とリクは顔を見合わせてしまった。
実は薔薇の宮こと、朱麗の公子とは一度も会ったことがない。洗濯係と庭仕事では会う機会もなかったし、必要もなかった。最初、少女はアーシェを「返品」しに行こうとしたが、思いのほか勉強がはかどり、その必要もなくなったのだ。
「……初耳です。だからアーシェたちは屋根裏に?」
「ええ。一度目を付けられたからには、しばらくは巻き込まれるだろうとおっしゃられておりました。さすがに本当に半従業員として仕事して頂くわけにはいきませんでしたが、それで私どもも協力を。おっしゃられたとおり、次々と事件が起り、こちらとしては面目次第もございませんが、役所に訴え出るよりも、無事に受験を乗り切るためには騒がず退ければいいと、そうおっしゃいまして。お二方が今日を無事迎えられたのは、薔薇の宮様のおかげかと」
少女は記憶を反芻した。彼は「面白そうだから一緒にいたい」と言わなかったか。確かに次々起った妨害事件はことごとくアーシェとバッファ、それにリクが防いでくれたが。どちらが本当なのか。
「意外に策士だな」
リクがボソッと呟いた。
少女とリクの目が合った。
恐らく、どちらも本当だろう。仕事にかこつけて、あの腹筋は楽しんでいたに違いない。
意外に抜け目ないことをこの短い付き合いでも見抜いている二人は確信した。




