五
そうして、悪夢のような一夜が明けた。
「お目覚めですか、桔梗様」
朝の光が寝足りない体に染みる。身を起こすと、中将が側に控えていた。
「中将、今は何刻か……藤は?」
「もうお帰りになりました。また、こちらをお渡しするように、と」
中将が差し出したのは一片の畳紙だった。不審に思って開くと、そこに記されていたのは一首の歌だった。その意味することは――。
「――っ!」
紙を持つ手が震える。これはまるで後朝の歌のようではないか。破り捨てたくなったが、中将の手前、変に思われることをするわけにはいかないので、怒りに震える指で紙を畳んだ。
「ご気分が優れないとお伺いしておりましたが、やはりお疲れのご様子でござりますね」
「何?藤がそう言ったのか」
「はい、『酒をたくさんお勧めしてしまった、私に付き合わせてご無理をさせてしまったから、無理にお起こしするな』と。今日は内大臣様の元へお出でになると仰っておられましたが、どうなさいますか?」
藤が、言葉のはじめは良いとして、真ん中に含みをもたせているのにも腹が立った。勿論、中将が気づかぬような。
「……父上の邸へは参上する。お前は左様なことを考えなくて良い」
「……申し訳ありませぬ。差し出がましいことを申しました。では、湯を持って参ります」
つい、中将に八つ当たりしてしまったことに気がついたのは、彼女が下がった後だった。
とにかくしっかり起きようと体を伸ばすと、節々が変に痛んだ。その痛みに、昨夜のことが夢ではないのだと思い知らされる。
そういえば、単を着た覚えがないのに、目が覚めたときには、普通に眠っていたかのように綺麗に整えられていた。女房に怪しまれないように、桔梗が眠っている間に藤がやったのだろうか。
「つっ……何故、私なのだ」
上流貴族の男として生まれ、望めば金も権力も恣にできるというのに。何故、唯一求めたのが実の兄であるのか。弟の異常性に恐怖すると同時に、流されて関係を持ってしまった自分にも嫌気がさす。
「もう考えるのはよそう」
考えるほど、頭がおかしくなっていきそうで、桔梗は思考を振り払って立ち上がった。
同日、藤は昭陽舎に参上した。
眼前に座すのは、上等の衣服に身を包んだ齢たった十三の童子――今上帝の一の宮、東宮である。
昔、藤が童殿上していたときから、東宮は彼をお気に入りの遊び相手とするようになった。
右大臣を外祖父にもつ東宮は、きっと近いうちに皇位を継承するだろう。内大臣家の子息である藤と仲良くすることを、右大臣が快く思うはずもないのだが。
「ほれ、面を上げよ。もっと近うよれ。お前に見てほしいものがある」
顔を上げると、切れ長の瞳にまっすぐ捉えられる。どことなく兄に似ているように思うのは、昨日あんなことがあったからだろう。
「失礼いたします。此は、絵にござりますか?此はまた、見事な……」
「うむ、私が描いた」
「東宮様が?なんと、これほどまでお描きになるとは」
「世辞はいらぬ。何度も筆を取り落としかけたのだぞ」
「いえ、世辞などではありませぬ。真に心に染みる絵とはこういうことでござりますよ」
これは紛れもなく本音だった。本当に、子供が描いたとは思えぬほど情緒あふれる絵だったのだ。
「ふ、そなたも言うようになったではないか。私に遊ばれて泣いていた童と同じ奴だとは思えぬ」
「……そ、その折は大変失礼いたしました。どうか、お忘れください」
年下の東宮に子犬をけしかけられて、泣きながら逃げ惑ったのは、我ながら恥ずかしい思い出だ。
「忘れぬ、私が帝になってもな。さ、絵はもう終いだ。そこな女房、片付けておけ。庭に出るぞ」
「庭ですか」
「何を呆けておる。行くぞ!」
ぐいぐいと袖を引かれ、なんという子供らしいなさりようかと内心呆れていると、額を檜扇で叩かれた。
「二つしか違わぬのに、子供を見るような目で見るでないわ」
「そのようなことは――東宮様?そのままお降りになるのはおやめくださりませ!誰か、履き物を!」
走り出た東宮を慌てて追いかけると、裸足のまま庭に降りようとしたところを女房たちに窘められていた。これでは母君であられる中宮様も頭の痛いことだろう。