四
こうしてひたすら悶々と考えていると、外から声をかけられた。
「藤の君、兄上様のお邸に着かれましたよ。今使いを行かせましたから、何もなければ、すぐに入れてくださるでしょう」
「わかった」
房親の言った通り、使いはすぐに兄のところの下男とともに戻ってきた。兄からの言伝ては、『少し邸内が荒れているがそれでも構わないなら』とのことだった。勿論、そんなことは気にしないので、お言葉に甘えて上がらせていただくことにした。
兄はすぐに出迎えてくれた。優しげな面差しは記憶と寸分も違わない。まだ背丈は追いつけそうにないが、以前よりは目線が近くなったように感じ、藤は密かに嬉しく思った。
そして、藤が何よりも驚いたのは、兄の優美な容姿だった。
兄は幼い頃から、自分と同じく母に似ていて、昔、女房たちが「今ですら、これほどお美しいのですもの、大人になられたらどんなに皆を魅了なさることか」と噂していたのを思い出した。それにしてもこれほどとは――。
藤が思わず見とれていると、それに気づいていなさそうな兄が、不思議そうな顔で弟を見つめつつ、口を開いた。
「文を出してすぐに来るとは思わなくてな、たいしたもてなしもできず」
「構いませぬ、兄上。突然訪ねた私が悪うございましたから。それより、手土産に酒を持って参りました故、お召し上がりくださりませ」
「それは有り難い、すぐに夕餉を用意させよう。今日は泊まっていくと良い、今宵は二人で飲み明かそうではないか」
「はい、兄上。……お手柔らかに」
冗談めかして言葉を付け足すと、兄は口の端に微かな笑みを浮かべた。
それから数刻、昔話に花を咲かせている内に、心地よく酒が回った。兄はあまり酒に強くないのか、段々と動きが鈍くなってきている。そしてついに、あの話題となった。
「……そういえば、お前のところに縁談を持ってきたと父上が……叔父上の二番目の姫君だったか」
「兄上もご存知でしたか。私はまだ早いように思うておるのですけれど」
「父上はお前をお可愛がりになっているからな。二の姫というと、たしか十四におなりか、似合いではないか」
「お言葉ですが、兄上を差し置いて話を進めるなんて、私は父上のお考えを良いとは思いませぬ」
「――……」
不意に話が途切れた。正直にものを言いすぎたかと思ったが、そういうわけではなさそうだ。兄の手から杯が滑り落ちる。急に酔いが回ったのだろうか、兄はうとうとと船を漕いでいる。
仕方ない、今日はもうお開きにして、寝所に運んで差し上げよう。女房を呼んで運ばせても良かったが、なんとなく自分が介抱したい気分だった。
「兄上、かようなところでお休みにならないでください、私の肩につかまって……」
「ん……?」
体を揺らされて、少し目を覚ました兄だったが、目の焦点が定まっていない。藤は溜息をついて、そのまま帳台へむかった。
やっとの思いで兄の体を横たえ、衣服をくつろげてやる。自分も適当なところで休もうと手を離すと、何故か袖を引かれた。
「まだ話はできるぞ」
「寝そうになっていた方が何を仰ります。私のことを散々子供扱いなさってきたのに、今度は兄上が子供のようなことを申されるのですか?」
「もう子供扱いはしない。お前は一人前の男だ。昔約束しただろう?」
「……よく覚えておいででしたね」
「当たり前だ。お前との約束は忘れぬよ」
――兄上は嘘つきだ。一番大切な約束はおぼえていらっしゃらないのに。
「……そうだ、話の途中だったではないか。父上がお前に縁談を回したのは、おまえが優秀だからだと、そう返したかったのだ」
「兄上の方が優秀であられます!私などよりずっと……」
それは紛れもない事実だった。学も、歌の才も、琴や笛も、兄に敵うものなんてないのだ。
それなのに兄が父から軽く扱われているのは、何故か。思い当たる理由は一つしかない。
「藤?どうした?」
伸ばされた手が、頬に触れる。落としていた視線をあげると、帳台に寝かされた兄の、酒に浮かされて涙を孕んだ瞳と目が合う。あまりに無防備な姿に、胸がどきりと騒いだ。
そして、最悪の思いつきと共に、一生言うつもりのなかったことが口からまろびでた。
「――父上が、兄上を遠ざけられるのは、やはり、父上が、兄上がご自分のお子でないと疑っておいでだからか」
「……な」
頬に触れたままだった兄の手が、突如強ばった。離れようとしたそれを掴み、兄の枕元に顔を近づける。
「何を……言っておるのだ」
「まさか、ご存知ないとは仰いますまい。三年前、貴方が母上から直接お聞きになったはずです」
手の震えがこちらまで伝わってくる。言葉を紡ごうとして微かに動く兄の唇を、藤は指先でそっとなぞった。
「あのとき、私は兄上より漢学を教えていただいておりました。わからぬところがありました故、兄上に伺おうとして、近くにいたのです」
「っ……!」
「きっと父上は、兄上の本当の父が誰なのかまではご存知ないのでしょう。しかし、もし、私が言いふらしたら?兄上はいったいどうなってしまわれるのか。私にもわかりませぬ」
「お、前……私を脅すのか」
「いいえ」
藤は、半身を起こした兄の肩を押さえつけ、上に覆い被さった。
「当分は黙っておりますよ。――その見返りを兄上がくださる限りは」
「見返り?」
「何、たいしたことではござりませぬ。お聞き入れくださりますか?」
藤には、絶対に断られない自信があった。今上の御落胤ともなれば、宮中にどんな騒動が引き起こされるかわからない。兄だけではなく、母にも危害が及ぶかもしれないのだ。それが、兄一人が努力するだけで防げるのだから。
「わかった。私にできることなら、その見返りとやらをしよう。何をすれば良い?」
その言葉を聞いた途端、藤の全身に歓喜が走った。それと共に罪悪感で胸がいっぱいになりかけたが、無理矢理ねじ伏せた。
「では、まず、私とこれからも会ってくださりませ。この数年、なかなかお目にかかれなくて寂しゅうござりましたから」
「あ、あぁ、勿論だ」
まずは一つ目のお願いがうまくいった。兄はそんなことでいいのかと気を抜いているだろう。
「では、もう一つだけ」
本当のお願いは二つ目だ。思い切り息を吸って、そっと耳元で囁いた。
「兄上、私の情人になってくださりませ」
「……は?」
あきれてものも言えないといった様子の兄に、冗談ではないことをわからせなくては、と思い、藤は動いた。
「聞こえませんでしたか?それともお分かりにならぬと?」
「そういうことではない。お前、ふざけるのも大概にせよ。私はお前の兄だぞ?しかも母を同じくした」
「ええ、解っておりまする。ですが、兄上こそ、ご自分の立場を理解しておいでか。貴方は私に見返りをくださると仰ったはずです」
兄の目が見開かれる。そして、弟の腕から逃れようとかけられた手から力が抜けた。兄とて大人の男なのだから、ぎらぎらと自身を狙う眼光の意味に気づかぬはずがない。
「……物わかりの良いお方で、私は嬉しゅう思いますよ、兄上」
「かようなことをして……どんな報いを受けるやもしれぬというのに。……愚かな弟をもったものだ」
「ええ、この身がどうなっても構いませぬ。ともに地獄へ参りましょう、兄上――」
完全に抵抗をやめた兄の唇に噛みつこうと、藤は大きく口を開いた。