三
母から衝撃の告白を受けてから数週後、桔梗は元服した。
その働きぶりから彼は順調に昇進し、三年後には近衛中将となっていた。十八になった桔梗は、殿上人として帝のお役に立たねばとあくせく働いていた。
瑞々しい男盛りの自身に向けられる、さまざまな視線には気づかずに。
そんなある日のこと、桔梗は宿直中に考えごとをしているうちに、うとうとしてしまったようで、昔の夢をみていた。目が覚めて真っ先に浮かんだのは小さい童が自分に追いすがるいじらしい姿だった。
思えば、忙しくて、昨年に元服したはずの弟に近頃あまり会えていない。だからこんな夢を見たのだろう。たまにはこちらから文でも出してみるかと、ほんの軽い気持ちで、桔梗は文の内容を考え始めた。
同じ頃、当の藤の君――今は少納言の地位にある――は父の邸の一角で寝転がりつつ、その日の昼のことを思い出していた。
昼間、縁談を持ってきたと父が言ったときに、何か変だと思ったのだ。普通なら年齢的にも、兄の方が先に縁談話を持ちかけられるはずなのに、父は自分にばかり話を持ってくる。今回は特に気合いが入っていて、相手は父の弟である大納言の二番目の姫君で、藤から見ると従姉妹にあたる。
「父上は何をお考えなのか。本来であれば桔梗の兄上に薦めるお話だよな」
口に出してから、考えが声に出てしまっていたことに気づく。慌てて口を塞ぎ、少し身を起こして周りの様子をうかがったが、女房たちが起きてくる気配はなく、安堵してまた枕へ頭を横たえる。
――そういえば、兄上に長らくお会いしていないが、今はどうしていらっしゃるのだろうか。
考えると、途端に兄が恋しくなった。思い立ったが吉日、文でも出して兄の邸を訪ねようと決め、起き上がる。明日は東宮様の元へ参上しなくても良い日のはずだ。
そうして、書き物をしているうちに朝が来て、なんと兄の方から文が届いた。嬉しくて、届けてくれた使いの男に褒美をあげようとしたが、女房に止められた。文の内容は、近いうちに挨拶がてら遊びに来ると良い、というものだった。
「ならばちょうど良い、今日行こうではないか。房親はいるか!」
「はい、お呼びですか」
すぐに姿を現したのは、藤と同じ年頃の青年だ。彼は房親といって、藤の乳母の子にあたり、実の兄弟のように育った腹心の家臣だ。
「今日は兄上の邸へ参ろうと思う故、俥を用意しておいてくれ」
「かしこまりました。ですが藤の君、お出かけは内大臣様にご挨拶なさってからですよ」
「わかったわかった」
父は、勝手に出かけると後からうるさいのだ。昨日の今日で本当は会いたくないが、仕方あるまい。そして、半刻の後に藤は父の元へ参上し、早速縁談の話をされたのだった。
「此れはまこと良縁であるぞ。あちらの姫君は落ち着いた方である故、そなたのような若者でもお支えくださるはずじゃ」
「はぁ、しかし父上、何故末弟の私にお話が?桔梗の兄上はまだご正室をお迎えになっておられぬはず」
「大納言が、是非にと言うてな。そなたのような将来有望な若者の後ろ見となりたいと申しておる。なんじゃ、浮かぬ顔をして。不満でもあるのか?」
「いえ……。兎に角、お話はわかりました。ただ少し考えさせてはくれませぬか?まずは文でも送らねばあちらのお気持ちもはかりかねます故」
「気持ちなどは後からついてくるものだが……まあ、よいだろう」
「では失礼します、父上。私はこのまま桔梗の兄上の元に参ります故、今宵はあちらに」
「左様か、では私も出仕するとしよう。下がって良いぞ」
藤は、笑顔を貼り付けたまま父の御前から退出した。作り笑いは得意な方なのだ。
いそいそと房親が用意してくれた俥に乗り込み、父の言葉を反芻して顔をゆがめる。
「……なにが良縁だ、私の気持ちも聞かずに」
上流貴族に生まれた以上、然るべき妻を娶るのは男の義務だ。そんなことはわかっているし、大納言の二の姫とやらは素晴らしい姫君なのだろう。
しかし、長年、藤の心に棲みついているのは、たった一人なのだ。
いつからこのような想いを抱いているのかはわからない。ただ、この片恋が決して許されざるものであるということだけは、痛いほど理解していた。行き場のない想いは凝り固まったまま、ぐるぐると藤の胎内を巡り続けている。