十六
藤が房親と共に消息を絶ったのは、三日後のことだった。
父は藤の邸に押しかけ、女房たちを問い詰めたが何も知らないという。そのまま五日調べさせ、何の収穫も得られなかった父は、桔梗にも邸に行かせたが、そこで初めて女房たちが口を開いた。
「兄上様がおいでになったら、この文をお渡しするようにと。中身は誰も見ておりませぬ」
上質な紙にしたためられた文を渡されたとき、桔梗はとても嫌な予感がしていた。
ゆっくりと紙を開き、文字を目で追う。そして読み終わったとき、桔梗は思わず文を取り落とした。
「あ……あぁ……」
その文は、どう読んでも遺書としか思えなかったのだ。
『桔梗の兄上。今まで、申し訳ございませんでした。お許しくださいとは申しませぬ。しかし、あの桜の下の約束を思い出してくださりませ。私は、あの約束のために生きて参りました。ただ、約束をお忘れの兄上が恨めしくて、あんなことをしたのです。
ただ、貴方を愛していました。それだけなのです。
暫しのお別れとなることを、ご承知ください。この文は誰にも見せずに燃やしてくださりませ』
文の後には、別れの詩と涙の染みがあった。桔梗は、文を握りつぶして、その場に蹲った。そして、それと同時に、文に記されていた桜の思い出が一気に目の前に蘇った。
§§§
藤が五つか六つくらいの頃、西対の庭の桜が綺麗に咲いたからと、母と三人で眺めていた。庭を駆け回る子供たちと、それを穏やかな笑顔で眺める母。とても幸せな時間だった。
ひらひらと舞う花びらを捕まえようとして、宙に飛んだ藤を受け止め、小さな手の中に薄桃色の花弁があることに気がついた。
「すごいな、藤!」
「はい!ははうえ、はなびらをつかまえました!」
「まあ、私にも見せてちょうだい」
しかし、花弁を持ったまま母の元へ駆け寄ろうとすると、不意に強風が吹き、藤の捉えた花弁が飛ばされてしまった。
「あぁっ、はなびらがありませぬ」
「風に飛ばされたか?残念であったな」
「せっかくつかまえたのに……」
桔梗は、泣きそうな顔をする藤の前にしゃがんで頭を撫でた。
「泣くな。花びらとは散って消えるもの。お前がもっておいたとしても、いつかは朽ちてしまうのだから、綺麗な内に手放したのはむしろ良いことかもしれぬ」
「あにうえ!そのようなさみしいこと、ききたくありませぬ!」
「あっ、すまぬ、余計なことを言った」
拗ねてそっぽをむいてしまった藤の頬に掌を当てて、こちらへ向かせる。
「……わかっておりまする。このよに『とこしへ』のものはないと、おききしました」
「ああ、そうだな」
「……では、あにうえは?」
「え?」
藤の大きな瞳が瞬いた。
「あにうえ、あにうえはずぅっと私と一緒にいてくださりますか?」
いじらしい声に、桔梗は弟が愛しくなって、その丸い頬をつつきながら約束した。
「当たり前ではないか、私達は兄弟なのだから」
大好きな兄の言葉に、弟は歓喜の声を上げながら兄の首に抱きついた。鬱陶しいくらいの桜の花びらが、二人の周りを飛んでいた。
§§§
何故、忘れていたのだろう。先に約束を破ったのは自分の方だったのだ。ずっと一緒だと約束したのに、元服してからは会いにも行かず、久しぶりに会ってから後は、拒絶してばかりだった。挙げ句の果てには、「お前が憎い」と言って逃げ出した。
「……ふ、じ」
何故、何も返してやらなかったのだろう。二人きりのときに、誰も聞いていないときに、一言だけでも、本心を伝えていれば。
「……藤……っ」
今更後悔しても、もう遅いのだ。
「――桔梗様はおいでか!」
突如、聞き覚えのある声がした。女房をかき分け、ばたばたと騒々しく入ってきたのは――房親だった。
「房親?そなた、今までどこに……!」
「桔梗様!あぁ、良かった、貴方様に真っ先にお伝えせねばと……」
涙に濡れた桔梗の顔を見た途端、房親の顔も歪んだ。
「……っ、我が主、藤の、君、が」
よくよくみれば、房親の目は既に真っ赤に腫れていた。房親が話し始めるのと同時にそれに気づいた桔梗は、瞬時に耳を塞いだ。
「嫌だ、聞きとうない」
「桔梗様!いいえ、最後まできちんとお聞きくださりませ!」
涙声の応酬に、その場にいる女房たちも一歩も動けずにいた。
「貴方様だけは、受け止めていただかねばなりませぬ!」
腕を捕まれ、耳に蓋をするものがなくなった。目の前に迫った房親の顔は、涙と砂で薄汚れている。
――嫌だ、嫌だ、聞きたくない。聞いてしまえば、あの文に記されたお別れが本当になってしまう。
そんな桔梗の祈りも虚しく、房親の口から発されたのは、この世で一番残酷な報告だった。
「――我が主、藤の君は、三日前に、この私、房親の目の前で、自ら……鴨川に御身を投げられました」
女房たちが口々に騒ぎ出し、動揺が邸中に広がる。桔梗はその中心にいながら、一言も発することができずに、泣き崩れた房親の背中をただ呆然と見つめていた。




