一
――それは小さな約束だった。
『あにうえ、あにうえはずぅっと私と一緒にいてくださりますか?』
『当たり前ではないか、私達は兄弟なのだから』
兄は、こんな昔のことなど、もう覚えていないだろう。あの麗らかな春の日に、幼い自分の手を引いてくれた、淡い思い出のことも、鬱陶しいほどに舞う、桜の花びらも。
そして、小さな約束のことも。
ただ、瞼の裏に浮かぶのは、貴方との思い出ばかりだった。きっと貴方はそのことすらわかってくださらないだろうが。
後ろで泣いている青年の肩に手を置いて、彼は微笑んだ。お前にはすまないことをした、後は頼むと。
鴨川の水面は、その日もきらきらと輝いていた。
……時は数年前に遡る。
§§§
しんと静まる邸内で、簀に座し溜息を溢す少年が一人。
肩に垂れる長い髪が、彼がまだ元服前の男子であることを示している。彼が今、月を見上げている、この邸やしきは京の主要地にある内大臣の本邸である。
彼はその次男で、桔梗の君と呼ばれている。
桔梗はもう十五になるので、あと数週で元服を迎え、官位をいただく予定だ。つまり、今まで通りではいられなくなるのだ。生まれた頃から大層可愛がってくれている家族との時間が減ると思うと、少し寂しい。
ふと、桔梗は、昼間の母の言葉を思い出した。
『皆が寝静まってから私のところへおいでなさい』というのが母からの命令だった。そのために、こんなところでそっと息を潜めて、邸内が静かになるのを待っていたのだった。
「皆寝たか。では、そろそろ行くとしよう」
ゆっくりと立ち上がり、広廂へ足を踏み入れる。趣味よく誂えられたこの西対の女主、その人こそが、桔梗の実母である。
「母上、桔梗です。起きていらっしゃいますか?」
「桔梗、待っておりました。ほれ、もっと近う……」
柔らかな、しかし緊張を孕んだ母の声を不思議に思いながら、桔梗は几帳を押しやって母のすぐ目の前に腰を下ろした。
「……あぁ、よう大きくなったこと。そなたももう元服です。そこで伝えておかねばならぬことがあります。しかし、このことはゆめゆめ誰にも申してはならぬ。無論、この私も誰にも申しませぬ。おわかりか」
普段ははっきりとものを言う母が、ここまで勿体ぶるのは珍しいことなので、桔梗もなんだか緊張してきた。
「わ、わかりました。して、その伝えねばならぬこととは?」
なんとか返事をすると、ふぅ、と母が息を吐き、耳を貸せと手振りで示す。おとなしくそれに従って近づくと、潜めた声で囁かれた。
「そなたの父君は、内大臣の殿ではござりませぬ。そなたは、私が殿の妻として迎えられる前、上の女房であった折に、今上の帝がお手をつけられて生まれた子なのです」
想像もしていなかった突拍子もない話に、桔梗は大声を上げかけたが、袖で口を塞いでなんとか押しとどめた。
「母上、なんという……」
うまく言葉が出てこない。若い頃はその美貌を内裏中が褒めそやしていたという母ならば、そのようなこともあり得るのかもしれないと、桔梗は変に納得してしまった。
「知らぬ方が幸いやもしれぬとも思うたけれど……父を知らずに生きてゆくのは罪深きこと。故にそなたに伝えたのです」
「左様……でござりましたか」
まだまともに言葉を紡げずにいる桔梗の頭を、母の白い手が優しく撫でる。
「ほれ、もうお休みなさい。女房に怪しまれるといけませぬ」
「はい、母上。失礼いたします」
桔梗は母の寝所を出て、そっと自分の閨に入ったが、今宵は眠れそうもなかった。自分が、今上帝の落し胤であるなど――信じられるはずもなかった。すっかり混乱した桔梗の目に、すぐ近くに立っていた人影が入っているはずもなかった……。