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◇
歴史を感じる大きな建物。立派であると同時に、簡素とも言える造りの大宮へ、足を踏み入れる。
辺りをキョロキョロと物色しながらも、太子は案内された部屋へと向かった。
「厩戸皇子、この奥で大王がお待ちにございます」
一本道の廊下の角で、調子麿は腰を低くして両手を服のそでに入れ、頭を少し下げた。
「厩戸皇子の身に起きたこと、大王にお話しされれば、きっと大王も理解を示してくださることでしょう」
そう助言をする調子麿は、太子のことを心配している様子が見て取れる。
何せ今の太子は、記憶が欠けた存在。記憶が欠けた所で、厩戸皇子という人物に陰りは見せないだろうと思う一方で、調子麿からすれば突拍子も前例も無い出来事は、いたく不安にさせていた。
太子は一度、調子麿に向けて頷く。そのまま足を大王が待つ間へと向けた。
「……そういえば、謁見するのはいいけど、作法を全く知らないぞ」
しまったと思い後ろを振り返るが、調子麿は頭を下げたまま太子を見送っている。
今更調子麿のところへ戻って聞くのも……そう思いつつ、もう大王がいる間は目の前だった。
なんとかなるか、と開き直り、太子は再び歩む足を進めた。
「失礼いたします」
そう一言添えて、部屋の前で服のそでに手を入れる。袖の中で腕と腕をしっかりつなぎ、そのままそれを首元まで持ち上げた。
さっき調子麿がしていた作法をまねてみたのだ。
「厩戸皇子、よく来てくださった。こちらへ」
部屋の奥、一段高い場所には一脚だけの椅子がある。そこに座っている女性――この方があの推古天皇なのだろうと太子はすぐに気づき、思わずゴクリと喉を鳴らす。
大王に言われた通り、部屋の中へと足をふ入れ、大王のそば、段のある手前で立ち止まり、頭を下げた。
「楽に座りなさい」
母親くらいの年代だろうか。
たしか推古天皇は聖徳太子よりも年が上だったな、とふと思い返す。
太子は頭を下げたのち、床に座った。座布団もなく、木の間である床に正座だ。
楽に座れと言われたが、ここはあぐらをかいてもよいものなのか、しかし大王の前、粗相をしてはいけないとの考えからの正座だった。
現代人である太子は、正座などめったにしない。さらに硬い床の上ときたものだ。さっそく脛に違和感を感じていた。
「皇子、女性のような座り方をするのですか? それでは苦しいでしょう。足を崩しなさい」
「あっ、はぁ」
なんとも間抜けな声が出た。けれど正座の限界は早いことを感じていた太子にとって、その言葉はありがたいものだった。
「今日の皇子は、いつもとはどこか違うようですね」
首を傾げるように、手を顎に添える。椅子のひじ掛けに腕を預けて、大王は太子を物色するように目を凝らしている。
やばい、言うなら今だ――とそう感じた太子は、思い切って口を開いた。
「……じ、実は先ほど、夢を見ました」
太子は上目遣いで大王を見あげ、目の前にいる方の顔色を窺う。ジワリと汗ばむ手を崩した足の膝の上で拭った。
「私の枕元には御仏が立ち、私にこう言ったのです。今から私の記憶の多くをを抜き取ると。だから私は少しばかり苦労を強いられることになる、と」
一瞬、自分は厩戸皇子の姿をしているが、実際は別の人間で、未来から来たのだと素直に言ってしまった方がいいのではないか、という考えが浮かんだ。
さっきは突然のこの状況に脳の整理が追いついておらず、咄嗟に浮かんだ考えで調子麿には言ってしまったが。
けれどそう考えたところで、太子は正直に話すという選択肢を打ち消した。
正直に話したところで、信じてもらえる保証はない。むしろこの時代だ、物の怪のたぐいだと言われてしまえばそれまで。
最悪の場合は打ち首なども考えられるかもしれない。人が簡単に死ぬ時代、同時に人が人を簡単に殺す時代でもあるのだ。
推古天皇の前の天皇は確か、暗殺によって殺されているはず。だとすれば皇子とはいえ、ヘタなことを言えば殺される可能性はゼロではないだろう。実際にこの時代、皇子も何人か殺されていた。血なまぐさい時代だった。
「なぜ、御仏がそのようなことを皇子に強いたのでしょうか」
大王は太子の思考の奥をのぞき込むように、じっと見つめている。
この話を信じてくれたのだろうか? 一物の不安を感じながらも、太子はもう後には引けない。
「それは……私にもわかりかねます。ですが、御仏のなさること、なにか意味はあるのでしょう」
「御仏のなさることであれば、そうなのでしょう。話によれば、皇子は最近三つも仏典の注釈書を書いたとか」
思わず太子は目をパチパチと瞬いた。そういえば書物を書いていたな、と脳内にある聖徳太子の生涯年表を思い返す。
ちょうど憲法十七条を制定した後、法華経というものを講じていたことを思い出した。
しかし思い出した時にはすでに遅い。大王は太子の様子を読み取り、首をひねった後だった。
「なんです? つい最近のことだというのに、それも覚えていないというのですか?」
「……申し訳ありません。記憶の大半はすでに御仏の元へと去った後のようです」
言いながら頭を下げて、表情を隠す。謝ることは慣れている。営業職の性だと太子は思った。
「では、皇子は大半の記憶を失い、これからあなたは何をしたいというのです?」
「何を……?」
大王の言葉に引っ張られるようにして、太子は顔を上げる。上げた先には、大王の清らかな御心と、力強い女帝の威厳をその瞳から感じた。
「ええ。大した過去を持たないということは、皇子は学びなおす必要があるでしょう。厩戸皇子という人物を。そして、あなたが私の補佐官であるがゆえに、必要とする知識を」
ぐっと、膝に置いていた拳を握りしめる。考えてみれば当たり前のことだ。太子は厩戸皇子で、推古天皇の摂政。政を補佐する役割があり、外交を任されているはずだからだ。
「けれど、私は皇子には期待しています。たとえあなたの記憶の大半が失われていようとも。それが御仏の心なのであれば、皇子には引き続き私の補佐をしてもらいましょう」
いつまで自分は厩戸皇子としてここにいることになるのか。そんなことを太子は考えていた。
仏が自分の記憶を奪ったと言ったのは、太子が作り上げたでまかせだ。自分は厩戸皇子ではない。であれば、ボロが出るのはすぐだろう。
「不安ですか?」
しまったと、太子は息をのんだ。不安が顔から出てしまっていた。
営業職の人間が、内情を顔に出すなど言語道断。仮面をかぶり、交渉を進めていくのが営業の腕の見せ所だ。
だから自分は営業職が向いていないのだろうか……考えが読めない大王を前に、太子はそんなことを考えていた。
「愚直に申し上げるなら、不安が無いとは言えません」
「では一体、何に不安を感じているのですか?」
「何に?」
知らないことだらけのこの世界にいること。力も無ければ能力も劣ると感じること。自分は厩戸皇子ではないということ。厩戸皇子ではないから、期待に応えられる自信はないということ。期待に応えられなければ、地位を失い、全てを失ってしまうということ。
今の太子がはじき出せるだけの不安要素が、一気に押し寄せてくる感覚。その感覚に太子は吐き気がした。
ここにいる自分は自分ではない。厩戸皇子の仮面をつけた、まがい物。
宇野太子は、何者でもない、ただの――。
「皇子は、何者になりたいのですか?」
太子の思考を両断するように、大王が声を上げた。
ひじ掛けに肘をつかず、背筋を伸ばし座る大王は、どこか神々しく太子の目に映った。
「三十二年の大半の記憶を失ったということは、皇子は今、厩戸皇子でありながら、厩戸皇子ではないのでしょう」
太子はまばたきもせず、勇ましくも見える大王を見あげる。ほんのりふくよかで、身ぎれいな恰好をした女帝を、太子は仏でも見るような目で見つめる。
「何者でもないということは、何者にでもなれる可能性を秘めているということ」
「何者にでも、なれる……?」
「何者でもない人間に、誰もついては来ないでしょう。であれば皇子は、一体何者になりたいと考えているのか、私はそれが知りたいのです」
何者にでもなれる。
何者になっても、良いのだろうか?
そんな疑問が太子の脳裏をよぎり、同時に心臓を締めつけた。
「私は――」
◇◇◇
「お客様、起きてください」
体を揺さぶられ、同時に目の前にうっすらと明かりが灯る。
瞼を押し上げてみると、まぶしい光が太子の目を差し、再び瞼を下ろしてしまう。
「お客様、終点です」
その言葉に、太子は再び瞼を開ける。
目の前にはキチンとした身なりの車掌が太子の体から手を離した瞬間だった。
ほんのり疲れが滲む彼の顔を横目に、浅く腰かけていた座席シートに座りなおす。
そのまま視線を落としてみると、いつものスーツ姿に、両手で抱えるようにして黒のビジネスバッグを握りしめていた。
「この電車はこのまま、車庫へと向かいます。ご乗車ありがとうございました」
端的に訳せば、さっさと降りろということ。
太子はお礼を述べて立ち上がると、頭に鋭い痛みが走った。変な体制で眠りこけていたせいだろう。首にもコリを感じる。
コリをほぐすように片手で首の後ろをマッサージしながら、すでに誰もいなくなっている車内を後にした。
「変な夢、見たな」
あくびを噛み殺しながら、ボーっとした頭で駅の構内を一人歩く。誰もいない構内は奇妙なほど静かで、自分の歩く足音だけが響き渡る。
その足音に目を向けると、最近買ったばかりの革靴が、校内にある電光掲示板の光を受けて、ぬるりと怪しく光っている。
営業職はじめた一年目、靴はすぐにボロボロになった。足手で稼いでなんぼ、という先輩の言葉を元に、時間がある限り、いろんな店へと足を運んだ。
この革靴は、何足目だったっけ。
そう思いながら、太子はふと夢も内容を思い返す。
「何者にでもなれる、か」
首を何度か左右に倒し、グッと両手を進行方向に伸ばす。
「俺はまだ二十六だしな」
三十二の厩戸皇子よりも若い。そう思うと、太子の足は不思議と軽く感じはじめた――。