【聖徳太子 〜宇野太子の場合〜】1
太子は一人、電車の中で落ち込んでいた。だがそれはいつものことでもある。
飲料メーカーの営業職で働く太子は、今日もお酒の販売をするため取引先がある大阪の飲食店に出向き、営業をかけに行っていた。
しかし出向いた先の店では仕事が遅いと怒鳴られる始末。それはいつものことだとしても、今日一番太子のメンタルを削いだのは――。
「……最悪だ。まさかあの店が他社とオセロするなんて……」
オセロとは業界用語で、仕入先の鞍替えのことを表す。ボードゲームのオセロからくるこの言葉は、お店側が黒から白へと変わることを示す。しかもこれは、一部製品の鞍替えではなくそのお店で取り扱っていた太子の製品全てを、他社製品にそっくり入れ替えられたことを暗示していた。
大阪本社に呼ばれ、上司とともにお店へと出向き、状況の確認とお店のオーナーとの話し合い。お店のオーナー曰く、ライバル業者の方がよく店に顔を出し、キャンペーンなどの販促もかなり充実させてくれたからだという。
けれどこのオーナーの本当の理由としては、きっと太子とは馬が合わないといったところだろうと直感していた。いつ行っても怒り口調で相手にされず、明らかに圧を感じる態度を取られていた。
足蹴に通っていたが、営業の邪魔にならないように回数を減らした矢先のこれだった。その後上司にこってり絞られたことは、この終電帰宅の状況が全てを物語っていた。
「営業、向いてないなぁ」
では一体どういう職種が向いているのかと問われれば、答えに詰まる。いつもこの繰り返しだった。他の仕事に転職すべきかと考えつつも、なにに転職すればいいのか、なにをすれば自分に合うのか……考えはいつも堂々巡りだった。
結局のところ、自分に合う職業なんてないんじゃないかと思えて、いつもそこで考えるのをやめてしまう。
酒を飲むのも好きで、人と会うのも嫌いじゃない。だからこの大手飲料メーカーの営業職をやってみようと考えたのだ。
けれど営業トークが上手かと言われるとそうではなく、むしろすぐにテンパって慌てて、空まわる。どちらかと言えば口下手な方だろう。
明日は休日だというのに、この気持ちのままでは休日もきっと気持ちが休まることはないんだろう。太一はそんな風に考えながら、うなだれるように頭を下げて目を閉じた。
◇◇◇
「……や……皇……」
切れ切れと誰かが呼ぶ声が聞こえて、太子は再び布団に潜り込む。けれどその声はどんどん大きく、緊迫感を増していくため、嫌々ながら目を開けた。
すると――。
「……はっ?」
見渡す限りの景色が、明らかにおかしい。木造の簡素ともいえる建物内。広々としていて、煌びやかさこそないにしろ、清涼感が漂っている。まるで古いお寺の一角にいるかのようだと太子は思った。
古いお寺とはいえ、建物自体は古びていない。簡素な造りがそう感じさせていた。
端的に言えば、この景色に見覚えはないということ。
「ここ、どこだ?」
声に出さずにはいられなかった。すると暖簾をはさんだ向こう側に、立ち膝の態勢で頭を下げている壮年の男性がいることに気がつく。
その風体はなんとも珍妙だった。見覚えがないかと言えば噓になる。が、とても風変りで、義務教育時代に歴史の教科書で見た事のある服装をしている。まるでNHKの大河ドラマの撮影現場に飛び込んでしまったかのような、妙ちくりんな光景だった。
けれど妙ちくりんなのは自分も同じだと、すぐさま気がついた。
よくよく見てみると、黄色味の強い橙色のやたらとゆったりした装束を着ている。頭にはなにやら小さな帽子のような、冠が纏められた髪とともに頭部のてっぺんでかぶさっている。
そもそも太子の髪は短髪である。営業職の人間がダラダラと長い髪をしていては、イメージが良くない。爽やかにフレッシュな印象が営業をかける身としては一番顧客の反応がいいのだ。
それなのに今の太子は長髪だけではなく、髭まで携えて、普段の姿は見る影もない。
「お休みでいらっしゃいましたか。恐れ入りますが大王がお呼びです」
「おっ……?」
聞きなれない言葉に、太子は首を傾げる。この訳の分からない状況に、太子の思考は全くもって対処できていない。
聞きたい事は山ほどあるけれど、まずは――。
「あの、大王とは……?」
コホンと一度、喉を鳴らした後に遠慮がちに聞いてみる。床から抜け出し、暖簾の奥にいる男へと顔をのぞかせながら。
暖簾の向こうにいる男は、頭のてっぺんに団子をこさえ、切れ長な瞳を持つ男性は、まるで古代中国のドラマ番組にでも出てきそうな出で立ちだ。
「少しお疲れでいらっしゃるのでしょうか?」
そう言いながら、男は笑った。太子が冗談でも言ったのだと思ったのだろう。けれど太子はもちろん大真面目だ。
相変わらず戸惑いを隠せずどうしたものかと考えあぐねいている太子に、男は訝しい表情を向けながら、再度口を開いた。
「大王とはもちろん、額田部姫皇女様にあらせられます」
長ったらしいその名前、太子には聞き覚えがあった。しかしそれははるか昔の記憶。その記憶が正しいかどうかを探るため、朧げな記憶に手を伸ばし、パズルを完成させるかのように、太子はこう聞いた。
「ひとつ聞いてもいい……でしょうか?」
なんと聞けばいいのか悩んだ末の敬語。しかし相手は太子の言葉尻に違和感を覚えたのか、細く切れ長なの上にある太い眉毛が大きく動き、眉間には深いシワを寄せた。
年上に対する態度を考えると、敬語が正しい選択かと思った太子だが、相手の反応を見る限り、これは誤りだったと思った。
「……なんで、ございましょうか?」
太子はゴクリと息を飲み、小さく震える唇をゆっくりと開いた。
「私の名前を、今一度呼んではくださいませんか?」
この言葉に、男はさらに首をかしげた。と同時に、ほんのり疑惑の色がその瞳に映っているのも感じながら、こう聞かずにはいられなかった。
「厩戸皇子もとい、上宮之厩戸豊聡耳命……でよろしいのでしょうか?」
太子の言葉の意味をくみ取れているのか不安を感じてか、男はそのように答えた。
同時に太子は、この呼び名を聞いてすべてが繋がったとでも言いたげに深く息を吐き出した。
はたして、こんなこはあり得るのだろうか。
太子は、どうやら自分は聖徳太子になっているようだと分析しつつ、混乱する頭を必死に押しとどめる。
太子の本名、宇野太子。両親は平凡なサラリーマンの家庭で、聖徳太子とは縁もゆかりも無い家庭に育った。
しかし両親、特に父親が聖徳太子と縁がある奈良の明日香村出身ということもあり、聖徳太子のような偉大なる人物となるように名付けられたのが、太子の名前の由来だった。
この名前のせいで、小学生の頃の太子はいつも男子にイジメられていた。特に太子は大人しく、体形もどちらかと言えばふくよかな体質だったため、歴史の教科書に載っている丸みのある顔の聖徳太子とソックリだといじられていた。
自ずと聖徳太子の情報は耳に入って来ていた。まずは明日香村出身の父親から。
聖徳太子がどういう事を成し遂げた人物だったのかを何度も聞かされ、実家の学習机のすぐ隣の壁には聖徳太子の誕生から死ぬまでの年表が貼られていたほどだった。
それゆえに、太子はこの男が言う大王が誰なのかも理解していた。聖徳太子を語る上でよく聞く人物、額田部姫皇女とは女帝天皇である、後の推古天皇のことだ。
推古天皇が女帝ということで、天皇を補佐するための摂政、それが聖徳太子だ。この男の言う大王こと額田部姫皇女とは、間違いなく推古天皇のことだろうと確信を得た。