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◇◇◇
「……田中さん?」
遠慮がちに自分の名を呼ぶ声に、結月ははっと目を覚ました。
「やっぱり、田中さんだ」
「わっ、私……!」
そばで声をかける男性の姿になど気にする様子もなく、結月は叫んだ。
背もたれに預けていた体を引きはがし、結月は自分の両手をマジマジと見つめた。そこにあるのは、いつもと変わらない結月の手。腕もいつもと変わらない滑らかとは言えない乾燥肌な腕。
先日不注意でムダ毛を処理した際にカミソリで切った傷跡。かさぶたになったその後も、しっかりと腕に残っている。
「……よかった。夢だった」
はぁ、と安堵のため息がこぼれた。一気に体からこわばりが解けていき、結月は再びシートの背もたれに身を預けた。
「一体、どんな夢見てたの?」
「どんなって……わぁ!」
再びかけられた言葉に、今度は違う意味で驚きの声を上げた。
その声に驚いた相手も思わず一歩後ずさるほど、驚きを隠せないでいた。
「……って、あれ? 宇野くん?」
落ち着いてマジマジと見てみると、結月のそばに立つのは同じ小中学校を共にした学友である、宇野太子だった。
「何度か声かけたんだけど、寝ぼけてたのか全然反応してくれないからさ、人違いかと心配したよ」
太子は頭をポリポリと搔きながら、苦笑いを浮かべている。
ぴしっとスーツに身を包み、社会人らしく黒のビジネスバッグを持っている太子。髪型は結月の知る以前とは違い、短く切りそろえられ、ワックスで綺麗にまとめられているが、十代の頃と変わらない笑顔に思わず結月も笑みがこぼれる。
「ごめん、寝てたみたい」
「うん、知ってる。それより早く降りよう。ここ終点だから」
太子の言葉を聞いて、背後にある窓から外を見た。ちょうど結月の真後ろに、青い電光掲示板に白の文字で〝出町柳駅〟と記載されている。
太子が先に電車を降り、それに続いて結月も下車した。
「っていうか、かなり久しぶりだよね? 成人式以来だから、六年ぶり?」
久しぶりの再会だというのに、慌ただしい中でそれを感じる暇もなかった。
同窓会の時も対して絡むこともなく、遠目で太子の事を見かけた程度だったが、この六年で彼はすっかり大人になったのだと結月は実感していた。
彼の身に纏う空気感が、結月にそう感じさせていた。
「そっか、そんな前になるのか。大人になると時間の感覚おかしくなるよな」
なんて言って笑う太子の横顔を見ながら、二人は構内を突っ切りエスカレーターで改札口を目指す。
「ところで、どんな夢見てたの?」
「なんか、最悪な夢だったよ」
結月は今一度、自分の手を確認する。夢の中で見た自分の人形のような腕。傷もシミも毛穴さえない、綺麗すぎる腕。
あの瞬間を思い出すと、今でも肌が粟立つ。
だけどそれと同時に、なんだか電車に乗る前よりも体が軽く感じるのはなぜなのか。結月は疑問に思いながら、エスカレーターで一段後ろに立つ太子に目を向けた。
なぜか気まずそうな反応をして、太子は人さし指で頬を搔いている。その意図が分からず首を傾げていると――。
「エスカレーター、てっぺんまで来るよ」
そう言ってさっきまで頬を掻いていた指で結月の背後を指さした。それに合わせて結月も身をひるがえし、エスカレーターをゆっくりと降りた。
「なぁ、知ってる? 京阪電車の終電で見る夢って、不思議だけど見た後はどこかスッキリして、夢を見る前よりも気持ちが楽になるんだってさ」
「えっ、そうなの? そんな噂初めて聞いたな」
今までも何度も乗っている京阪電車。だけどそんな話を聞いたのは初めてだ。
結月に続いてエスカレーターを降りた太子と並び、結月達は改札口へと向かう。平日の最終電車。まばらな人が吸い込まれるように改札へと向かう中、結月の足はなんだか少し軽い。
ローヒールのパンプスはいつものように軽快な音を鳴らし、けれどその足はいつもむくんで重い。いつもと変わらない。それなのに、そんな風に思う自分自身に首を傾げる代わりに、結月は一度足元に目を向ける。
「実は俺も、最近見たんだ。夢」
「えっ?」
足元に向けていた視線を上げて、結月は目を見開いて太子を見つめた。
太子はどこか照れ臭そうで、かつ、なんだか気まずいような表情で笑っていた。
「京阪電車の終電で見た夢が気になっててさ、そしたらそんな噂話し聞いて、納得したっていうか……だから電車の中で寝てる田中さんを見つけた瞬間、声をかけずにいられなかった」
そう言った時の太子の表情は、小学生だった頃の好奇心やら探究心やらが見え隠れするようなあどけなさに、結月はなんだか安心感を覚えた。
定期購入しているICOCAカードを改札口にかざすと、ピッという音が鳴る。それがなぜか結月には、いつもよりも耳についた。
太子も同じく改札をくぐり抜けた後、結月は思わずこう言った。
「ねぇ、連絡先教えてよ。今度その話詳しく聞かせてくれない? 私の見た夢についても話すからさ、飲みながらどうかな?」
「いいね。いつにしようか」
そう言いながら入れ替えるように定期入れとスマホをポケットから出し入れして、太子は慣れた手つきでLINEのQRコードを探し出す。
結月も同じくLINEのQRコードを読み取る画面を出して、太子が差し出したコードを読み取る。
読み込みに成功したスマホは、ブブッと小さく揺れた。
「じゃあさ来週の金曜日とか? 仕事終わりの時間で」
「わかった。じゃあ時間についてはラインを入れるよ」
「そうね。そうしよう。楽しみにしてる」
「俺も。じゃ、俺はこっちだから」
結月が足を向けている方向とは逆を指差し、太子は軽く手をあげる。
それにならって結月も手を振った。
「じゃあ、また」
「うん、またね」
長いこと話をしなかった間柄なのに、来週には一緒に飲みに行く約束をしている。そのことがとても不思議だと思いつつ、結月はスマホに入った太子の連絡先に視線を落とす。
「ぷっ。宇野くんらしいな」
太子が設定しているLINEのアイコンには、歴史の教科書に出てくる聖徳太子のイラストだった。
太子が歩く背中を見つめながら、よしっ! と一声上げた後、結月もくるりと身を翻して歩き出す。
コツコツとローヒールの音を駅の構内に響かせながらーー。




