【甘くて、ビター 〜田中結月の場合〜】1
充実とはなんなのか。最近の結月はいつも、そのことばかりを考えていた。
終電で帰る金曜日。お酒を飲むのが好きな結月にとって、それは生きがいと言っても大げさではない。
特に小学校の教師をしている結月にとっては、平日は仕事や雑務、なんなら生徒の保護者とのやり取りに追われ、なるべく飲みに行くのは週末だけと決めていた。
家で飲むのも好きな結月だが、人と飲めるのはもっと好きだ。
田中結月二十六歳、未婚。付き合ってる人はいるが、結婚はない。
結月は自分の仕事に生きがいもやりがいも感じている。が、それが原因で結婚を渋っているのではない。
付き合っている相手には妻も子もいるのだ。どうあがこうが結月に勝ち目はない。少なくとも結月はそう思っていた。
「やっぱ彼とホテルに泊まっちゃえばよかったかなぁ?」
なんて酔った口で、ぽつりとつぶやいた。 しかしつぶやいた言葉は本心ではないことは、毎週この終電できちんと帰る結月の行動が物語っている。
最終電車の京阪電車。彼は大阪に住んでいるため、二人はいつも両者の都合が良い京橋で待ち合わせし、飲んでいる。
普段は帰らないといけないという彼が、時々近くのホテルに泊まって行こうと言う。けれど結月はそれをいつも拒む。休憩はいいとしても、宿泊を選択してしまうと色んな意味で帰れない気がしていたのだ。
妻子のある男性を好きになり、彼も結月に好意を抱いている。少なくとも体だけの関係ではない。
結月は電車に揺られながら、天井を仰ぎ見る。つり革広告をただなんとなく見つめながら、小さく歌を口ずさむ。それは京阪電車の曲である。
「出町柳から~電車は走る~……」
口づさんだその歌をどこまで歌ったか分からなくなった頃、結月はハッと目を覚ました。
◇◇◇
「あれ、私いつの間に寝ちゃってたの?」
机に突っ伏して眠っていたらしい、結月。頭を勢い良く持ち上げて、思わずそう呟いた。
「よくお休みでしたね。少しは気分も良くなりましたか?」
二日酔いの朝に飲む味噌汁のように、じわりと胃に届く優しさがその表情から浮き上がっている。
結月はどうやらバーのカウンターでひとり、眠りこけていたようだ。薄暗い景色の中であたりにはぽつぽつとまばらにいる人達が散見できる。
「良い夢でも見れましたか?」
シャカシャカと氷がステンレスのシェイカーにぶつかり合う音を立てながら、バーテンダーの女性は結月にキリっとした引き締まった表情を見せている。
柔らかい言葉尻とは打って変るような、表情だ。
それもそのはずだ。なぜならば、彼女はロボットだからだ。
それは彼女の動きを見ていれば分かる。滑らかな動きの中にも、どこか違和感を感じる。
それはほんの小さな違和感で、なにが変なのかと言われると言葉を濁すほどだ。
高性能AI。肌の色も見た目もいたって普通。けれどその普通が、本物の人間からすれば違和感でしかないのかもしれない、と結月は思った。
かっこいい、美人だと言われる顔ほど一般的なのだと言う。
血のつながりのない人々の顔をデータで読み込み、重ね合わせていくと、自ずと綺麗だとか、かっこいいだと言われる顔になるらしい。
逆に言えば、特徴のある顔や一般的にもてはやされる外見をしていない人ほど、それは個性なんだとか。
その理論で言えば、このバーテンダーの表情はそれに値すると結月は思った。
「良い夢……どうだったかな? 覚えてないわ」
頬杖をつきながら身体をゆだねるようにして、結月はカウンターテーブルに身をゆだねる。
するとその直後に、コトンと小さな音を立てて、結月のすぐそばに逆三角形のカクテルグラスが置かれた。
「覚えてなくても、いいじゃないですか。なにせ夢なんですから」
いつの間にか鳴りやんでいたシェイカーのフタをポンと開け、空いたカクテルグラスに中身を注ぐ。
中から茶色の液体が流れ出て、全部注ぎ終える頃にはグラスの上部にほんのり茶色い泡がまるで雲のようにかかっていた。
ほのかに香る甘い匂いに、結月は顔を上げた。
「これって……」
相変わらずキリリと澄ました表情を見せるバーテンダー。泡立つカクテルの上に沈まないようそっと乗せたのは、三粒のコーヒービーンズ。
「エスプレッソマティーニです。コーヒーがベースにあるので、すっきりとお目覚めになれるかと思います」
「やっぱりコーヒーなんだ。すごくいい香り」
カクテルグラスを手に取り、結月はシャンと背筋を伸ばす。コーヒーのビターな香りと、リキュールの甘い香り。その香りの酔いしれるように、結月はそれを一口飲んだ。
エスプレッソなんて名前がついているくらいだからと思いもっと強い苦みを想像していた結月だが、第一印象は思ったよりも甘いと思った。
けれどそう思った後すぐ、コーヒーの味が口内で主張をはじめ、すっきりと飲めるカクテルという印象に変わる。
「これ、コーヒーリキュールで作ってるんですか?」
素直においしい。結月はそう感じていた。
コーヒーを毎日欠かせないほどのコーヒーラバーである結月にとっては特にだった。
「リキュールも使用していますが、当店にはコーヒーマシーンがありますのでそちらで抽出したエスプレッソを使って作りました」
「だからか……これ、すごくおいしい」
そう言った後、もう一口カクテルを飲む。さっきよりも長くグラスに口をつけて、たくさんの量を口の中へと含んだ。
「お気に召していただけたのなら、よかったです」
バーテンダーは微笑んだ。けれどその笑みはどこか、さっきよりも人間のようだと結月は思った。
「もう一杯お作りいたしましょうか?」
あっという間に空いたグラスを見て、バーテンダーは洗い上がりのグラスを拭いていた手を止めた。
「ええ、お願いするわ」
結月はほんのりまどろむように微笑んだ。
「甘さと苦みが交錯する感じ、なんだか……」
ぼそりと呟いたつもりだったが、どうやら声はカウンターを挟んだ向かいにいるバーテンダーにまで届いていたようだ。
「なんだか、なんですか?」
シェイカーにウォッカ、コーヒーリキュール、エスプレッソ、シロップ。氷をポチャンと落とし入れ、五百円玉サイズのフタを閉じる。
結月の返事を待つバーテンダーの姿に、少し気まずい気持ちで下唇を舐めた。
「なんていうか……人生みたいだなぁって思って」
相手はロボットだ。そう思うとためらう気持ちを押しやり、続きの言葉を口に出す気にもなれた。
人間相手にこんな事を言えば、ポエマーだとか、自己陶酔だとか言われかねないな、とほんのり酔った頭でそう考えていた。
「酸いも甘いも、もとい、苦いも甘いも……と言ったところでしょうか」
バーテンダーはシェイカーを両手で持ち、映画で見るようなポーズでシェイカーをリズミカルに振っていく。
響き渡る氷の音聞きながら、結月は再びあたりを見渡す。小さな店内で、テーブル席は五つほどしかない。コの字型のカウンターテーブルには今や結月しか座っていない。さっきまではもう少し人がいた気がした店内も、気がつけば閑散としている。
シャカシャカという音がゆっくりと、そして静かに止まると、結月の前に新しいカクテルグラスが置かれた。さっきと同じ形のグラスだ。
その中に注がれるエスプレッソマティーニのビターな香り。ほのかに香るシロップの甘さが結月の鼻先をかすめる。
一杯目同様に泡がかかるトップに三粒のコーヒービーンズを置き、バーテンダーはシェイカーを片付け始める。その手を止める様子はなく、彼女はさらにこう言った。
「それで、エスプレッソマティーニと同じような、味を感じる出来事でもあったのですか?」
相変わらず片づけの手を止めず、目も合わせようとはせずに聞いてくるその様子に、結月は一種の心地よさを感じ始めた。
さっきまではどこか違和感を感じると思っていたが、その違和感は次第と薄れていく。
それは結月の酔いが回り始め、感覚がいつもと違っているからなのか、それとも……?
そこまで考えたところで、エスプレッソマティーニを一口含む。お酒にはめっぽう強い方だ。しかし、酔いが回るのは早く、すぐに気持ちがフワフワとしてしまう。
結月の場合はその感覚が人より長くキープされた状態が自分が酔っ払ったという認識だった。
「ただの酔っぱらいのたわごとだと思って、聞いてくれる?」
「ええ、もちろんです」
後ろに一つにまとめられた髪。サイドに降りた人房の髪が、はらりと揺れる。そんな様子を見て、結月はこのロボットのことを思わず綺麗だと思った。
もちろんロボットは人が作ったもの。だからこそある意味で一般的な美人顔をしている。もしこれが個性的な顔をしているのであらば人の好みも分かれる始末だ。




