【短編版】断頭台に消えた伝説の悪女、二度目の人生ではガリ勉地味眼鏡になって平穏を望む
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私の人生は酷いものだった。
侯爵家の娘として散々甘やかされて育った私、レティシア・べニートは、よく言えば天真爛漫、悪く言えば頭の悪い女に成長した。
大嫌いなものは勉強、大好きなものはドレスと化粧品。婚約者の王太子殿下のために勉強を頑張ろうだなんて考えたこともない。
顔と家柄しか取り柄がない女が輿入れしてきたのだから、アグスティン殿下の反応はそれはそれは冷たいものだった。
指一本触れてくれないのに、軽蔑を隠そうともしない綺麗な瞳で睨まれても、馬鹿な私は胸を高鳴らせるばかり。
そう、私はアグスティン殿下のことが好きだった。だからあの手この手で気を惹こうとした。
お茶会に招待してみたり、綺麗なドレスを着てみたり、贈り物をしてみたり。
けれど残念ながら、アグスティン殿下には恋人がいた。学園で出会った男爵令嬢。可愛らしくて朗らかな彼女は公然の愛人として王城で地位を確立しており、私はいつも惨めな思いをしていた。
そうして、愛する夫がまったく振り向いてくれないことに業を煮やし、更に暴走を重ねていく。
超高級品の首飾りを購入したのは、綺麗だと言って欲しかったから。
タチの悪い商人と付き合いがあったのは、珍しいお茶を手に入れて彼を誘いたかったから。
私の化粧をするときにミスをした侍女を流刑に処したのは、綺麗な私を殿下に見せたかったのに、それを邪魔したのが許せなかったから。
私にとっては全て理にかなっていて、当然の権利を行使したまでのことだとつい数日前までは思っていた。
賢明な彼が許すはずはなかったのに。アグスティン殿下——いいえ、陛下に愛想を尽かされたからこそ、私は今、断頭台に登っているんだもの。
束ねた髪を断つ無情な音が、群衆の罵声を上回って耳に響く。
どこかから飛んできた石が額にぶつかって、頬を生暖かい血が流れていく感触がした。
みすぼらしい麻のワンピースを着せられて、自慢の黒髪まで失ってはもう誇れるものなど何もない。後ろ手に縛られたまま無造作に体を押され、私の首がついに断頭台へとかけられた。
熱狂したような民衆の声が一際大きくなって、殺せ殺せと叫んでいる。悪意と殺意、そして負の感情全てを増幅させる熱意に包まれて、私は全身を針で貫かれたような気分になった。
こんなに恨まれていただなんて知らなかった。
だって、好きだった。陛下のことが好きだった。この恋のためならなんだってできた。
そのせいで家族まで捕らえられるだなんて思わなかったし、こんな風に処刑されるだなんて想像もしなかったの。
(陛下……!)
首を木枠で押さえられる寸前、懸命に顔を上げて陛下の姿を視界に収める。果たして、最愛の人は断頭台が最もよく見える椅子にゆったりと腰掛けていた。
そうして私は、サファイアブルーの瞳に何の温度も宿っていないことを思い知る。
ああ、私、私は。今まで、一体何を——。
金属の滑る音がして、私の視界は真っ暗になった。
*
恋に狂うって、馬鹿みたいだと思わない?
ええ、あえて言うわ。王妃レティシアは残念すぎる頭を持った究極の馬鹿だったって。
私には一度目の人生の記憶がある。
物心ついた頃にぼんやりと思い出した記憶。歳を経るにつれ今が二度目の人生であると理解した私は、当時の愚かな振る舞いについて大いに反省した。
いや、ないわ……。税金の無駄使いに、悪い商人との繋がり、挙げ句の果てには侍女を流刑って、まじで最悪だわー……。
だからこそ決意した。
今度の人生は勉強に捧げる。ガリ勉地味眼鏡になって平穏な一生を過ごすのだと。
どうしてもう一度人生をやり直す幸運を得たのかはわからないけれど、とにかく再び断頭台に登ることだけは回避したい。
だからこうして学園の図書室で猛勉強をしている。艶のある黒髪をお下げにして眼鏡をかけた地味な格好は、黒薔薇妃と謳われた一度目の人生なら到底考えられなかっただろう。
(これが正解よ。勉強したことは裏切らない。このまま図書室司書にでもなって、結婚なんてせずに生涯を過ごすの)
一度目の人生で爵位剥奪の上に捕らえられてしまった両親を、もう二度とあんな目には遭わせない。
既にアグスティン殿下との婚約は断った。両親は残念そうにしていたけれど、冷徹な目であっさりと殺してくれた相手になんて会いたくないし、もう好きでもなんでもない。
私は地味に慎ましく、これからも世界の片隅で生きていくのだ。
決意を固め直したところで、前に人が座る気配がした。
顔を上げると、私の学年でもトップクラスの人気を誇るセルバンテス公爵家の嫡男、カミロ様が斜め前に腰掛けたところだった。
私みたいな地味眼鏡とは根本の格が違う、学園のスーパースター。
二度目の人生において、こんなに近くで見るのは初めてだ。
炎のような赤い髪に、若草色の瞳が室内だというのに輝いている。17という年齢よりも少しだけ上に見える精悍な顔立ちは、先輩の女生徒たちにも絶大な人気を誇るとか。
流石は一学年上のアグスティン殿下と並び称されるほどの美形、座っているだけで絵になるわね。
カミロ様は歴史の参考書を開いて勉強を始めたようだ。明日は魔法の試験があるのだけれど、彼の成績はいつもトップだから必要ないということらしい。
魔法が得意な人って羨ましいな。私には魔法の才能がなくて、こうして勉強で身を立てる道しか選ぶことができなかったから。
「……駄目だ。わけがわからん」
カミロ様が諦めたように呟くのが聞こえて、私は魔法の参考書に落としていた顔を上げた。
若草色の瞳と視線が交わると、驚いたように丸くなって、頬に朱が散った。どうやら自分が独り言をしたことに気付いたらしい。
「ごめん。うるさかったよな」
「いえ、そんなことはありませんけど」
驚いた。カミロ様って、歴史が苦手だったのかしら。スーパースターに欠点なんてないと思っていたわ。
「何がわからないのですか? 私でわかることなら解説しましょうか」
ついそんな申し出をしてしまったのは、彼が本当に困った様子だったからだ。
歴史の本や参考書を机に積み上げて、なんとか調べようとしているのが伝わってくる。私みたいな地味女に教えられるのは不快かもしれないけれど、そう思うなら断ってくれたらいい。
「良いのか⁉︎ 助かるよ」
そう思っていたのに、カミロ様は嬉しそうに目を輝かせると、私の隣の席に移動してきた。
「ほらこの、この国が五つに割れてた『冬の時代』ってやつあるだろ。この時キリア国がこの国との貿易を停止させたんだけど、なんでそうなったのかわかんなくってさ」
「ああそれなら、キリアが東国との貿易を開始したからです。内部紛争で荒れ果てた国より、金の取れる国との繋がりを——」
自分の参考書を取り出して、じっくりと解説をする。
カミロ様は真剣な面持ちで頷き、時に質問をしながら、私みたいな底辺地味子の解説を嫌がりもせずに聞いてくれた。
窓から差し込んだ夕日が、彼の赤い髪を鮮やかに見せている。いつしか生徒たちも皆帰って行き、色々な質問に答え切った頃には既に窓の外は闇の色になっていた。
「なるほどな! ようやく理解できた。君は教えるのが上手いんだな」
「冬の時代は複雑で難しいですからね。お役に立てて良かったです」
彼は将来竜騎士になるのよね。勉強も必要だもの、きっとすごく努力したんだわ。
カミロ様はアグスティン殿下の従兄弟で王室の一員。嫁いでから得た唯一の友達で、一度目の人生ではよく世間話をする仲だった。
学園では話したことなんてなかったけれど、一緒に勉強してみるとこんな感じなのね。何だか、楽しいな。
「俺、勉強あんまり得意じゃないんだ。レティシア嬢は凄いな」
「私の名前をご存知でしたの?」
「同級生で優秀なやつくらい覚えてるよ。君はいつも学年10位に入っているだろ?」
私はいつもテストでそこそこの成績を残している。
そう、そこそこ。一位を取るとあまりにも目立ちすぎるため、いつも満点になりそうな時はわざと間違えるようにしているのだ。
「明日は魔法の試験だってのに悪かったな」
「いえ、良いんです。私、魔法は苦手なので……もうこうしてペーパーテストの勉強をするくらいしか、できることがありませんの」
魔法の試験には実技と筆記の両方がある。
普通なら実技の練習を優先するからこそ、今日の図書室は閑散としているのだ。私はいくら練習しても上手くならなかったから、もう随分前に諦めてしまった。
ガリ勉地味眼鏡に、魔法の腕前はそこまで重要なものではないものね。
「だったら礼に、俺が今から魔法を教えようか」
思っても見なかった提案をされて、私はぽかんと口を開けた。
「そんな、悪いです。明日は試験なのに」
「それはお互い様だろ?」
「いえ、でも……私、いくら頑張っても駄目だったんです。それなのに時間を割いてもらうわけには」
「それこそお互い様だって。俺は魔法には結構自信あるし、試してみるのも悪くないと思うぜ」
青くなって首を横に振ると、カミロ様はからりとした笑みを浮かべた。頼もしくも温かい笑みに、私は思わず言葉を詰まらせてしまう。
貴方はちっとも変わらないのね。慈悲深くて面倒見がよくて、公平な視点で物事を見ている。
「決まりだな。じゃ、早速外に出よう」
「あ……! お待ちください、カミロ様!」
さっさと歩き出していた彼は足を止めて振り返ると、俺の名前知ってたんだなと言って朗らかに笑った。
カミロ様の指導は中々にわかりやすかった。
どうやら私は魔力を集中させるにあたって、体の末端に残してしまっていたらしい。まさかそんなところに原因があるとは知らなくて、私はすっかり驚いてしまった。
「よし、それじゃあ空、飛んでみるか」
「えっ⁉︎ いきなりすぎませんか?」
「明日は飛行のテストだろ? 床からそんなに浮き上がらなければ大丈夫だよ」
自信満々に腕を組むカミロ様に押し負けて、私はおずおずと頷いた。
まずはしっかりと体の中心に魔力を集中させて、間違えないように呪文を唱えていく。せっかく教えてくれたカミロ様にお返しする意味でも、なんとしてでも成功させたい。
呪文を唱え終えた頃、ふわりと体が浮いた。
風が吹いて重たいお下げを揺らめかせている。初めての浮遊感に目を丸くした私は、瓶底眼鏡越しにカミロ様と視線を合わせた。
「わっ……! わ、わあ! 浮きましたよ、カミロ様! 凄い……!」
「やったな、レティシア嬢! よく頑張った!」
すごい、すごい! 本当に飛べるだなんて思わなかった。普通の人に比べればまだまだコントロールも飛距離も足りないけれど、私にとっては十分すぎる成果だ。
魔法って楽しいかも。そんなことまで考え出した私は完全に浮かれていて、自分の魔法の未熟さを忘れていた。
急速に風が弱くなっていく。魔法の発動は終わりを迎え、支えを失った私は呆気なく身体を傾がせた。
「危ない!」
鋭い声が飛んだのと同時、何か力強いものが腰を支え、全身を抱き留めてくれる。膝より低い程度の高さしか浮き上がっていなかった私は倒れ込むこともなく、素直にカミロ様の腕の中へと収まってしまっていた。
「も、申し訳ありません! ありがとうございます……!」
「いや、いいんだ。怪我はな」
慌ててカミロ様を見上げると、彼は不自然に言葉を切って動きを止めた。
どうしたのかしら。お化けでも見たような顔だわ。
「レティシア、嬢……眼鏡、が」
「眼鏡……? ああ、ずれてしまいましたね」
たくましい腕の中から逃れて眼鏡を掛け直す。相変わらず呆然とした様子のカミロ様を見た私は、その原因に思い当たって心の中で両手を打った。
(もしかして、私の美貌に驚いちゃったのかしら?)
うん、多分そうだ。そうに違いない。
何せ私は黒薔薇と謳われたほどの美貌の持ち主。だからこそこうして伊達眼鏡をかけてまで日陰を歩んでいるのだから。
「カミロ様、本当にありがとうございました。明日の試験、いつもよりいい結果が残せそうです」
「ああ……」
「それでは、私はこれで。試験頑張りましょうね」
私はペコリと一礼するとその場を後にした。
まあ、見られたものはしょうがない。カミロ様はモテモテだし、私なんかに興味なんて持たないわよね。
明日の試験、頑張ろっと!
***
黒髪で眼鏡の、大人しそうな女の子。
レティシア嬢の印象なんてその程度だったのに、何故か入学時から気になる存在だった。
でも、これで理由がはっきりした。どうして今まで忘れていたんだ?
この人生が二度目であることを思い出したのは、腕の中に抱きとめたレティシア嬢の素顔を見た瞬間のことだった。
レティシア嬢……いや、レティシア。王城でただ一人不遇な時を過ごしていた悲劇の悪女、美しき黒薔薇。
せっかく迎えた奥方なのだから大事にしろと何度もアグスティンに進言したけど、あいつは恋人に夢中で右から左に受け流すばかり。
そんな中でも健気に夫を慕うレティシアは、次第に暴走を重ねていったのだ。
初めて声をかけてもらった時のことはよく覚えている。
御前試合で優勝した時のことだ。あなたの魔法は綺麗ねと言って、レティシアは純粋な眼差しを俺に向けた。
俺は確か「貴方の方がお美しい」と月並みな言葉遊びで返したように思う。レティシアは呆れることもなく、楽しそうに笑っていた。
次の日のことだ。王城を歩いていた俺は、昨日の優勝について噂する一団に遭遇して咄嗟に身を隠した。
「優勝はカミロ様か。まだ19歳だってのに、強すぎやしませんかね」
「王弟殿下の嫡男だ。いくらでも便宜がはかれるだろうよ」
「いいよなあ七光って。俺も欲しかったですよ」
くだらない陰口には慣れている。今更どうとも思わないけど、一団の中にはそこそこ仲良くしていた竜騎士の仲間がいたから、その時の俺はちょっとだけ堪えた。
いくら努力しても、力だけを見てくれる奴なんてそうそういないのか——。
「おやめなさい。陰口など、名誉ある竜騎士のすることではありませんよ」
凛とした声が聞こえて、俺は小さく息を呑んだ。
恐る恐る柱の影から顔を覗かせると、そこにはひれ伏す竜騎士と、背筋を伸ばして立つレティシアがいた。
「神に誓って、王家は昨日の御前試合で身贔屓などしてはおりません。優勝したのは全てカミロ様の実力です」
綺麗だ、と思った。艶のある黒髪を真珠で飾り、濃紺のドレスを身に纏っている。黒薔薇と謳われるにふさわしい美貌はもちろん、俺のために男たちを諌めてくれた、その勇気が嬉しかった。
「人の努力を笑っては、あなた方の誇りが汚れることでしょう。もうこのようなことは言ってはいけませんよ」
男たちはすっかり萎縮した様子で返事をして、許可を得るや否や早足で立ち去って行った。
レティシアもすぐに歩き出したけれど、俺のいる方に来てしまって、逃げるタイミングを失い顔を合わせるに至る。
「まあ、カミロ様」
「はは、どうも……」
立ち聞きしてごめんと言ったら、レティシアは少し恥ずかしそうに笑ってくれた。
初めての恋に落ちた瞬間だった。
いつしか俺たちはすれ違えば世間話をし、名前で呼び合う友人同士になった。
「アグスティン殿下は梨がお好きなのね。ケーキを作ってみようかしら?」
「うん、いいんじゃないか」
「ふふ。うまく出来たら、カミロにもあげるわね」
「レティシアの手作りか。楽しみにしておくよ」
好きな子の恋を応援するなんて、我ながら自分の傷口に塩を塗り込んでいると思う。
どんなに想っても彼女はいとこの妻で王太子妃だ。手の届くような存在じゃないと絶望している間に数年が経ったけど、レティシアはアグスティンを愛して止まなかった。
ああ、どうして。どうして、俺じゃないんだ?
俺ならその首飾りをした君を見て、世界一綺麗だと称賛しただろう。
俺なら怪しい商人との付き合いなんて止めさせて、自分からお茶の席に彼女を招待しただろう。
俺なら侍女を流刑にしてしまう前に、どうしたって君は綺麗だよと言って慰めただろう。
俺なら、俺は。
こんなに彼女を愛しているのに。
愛人に夢中のクソ野郎なんかと違って、君のことだけを一生大切にするのに。
レティシアへの国民感情が悪化する中、俺はなんとかして彼女の罪を揉み消そうと動いた。
けれど、だめだった。国王に即位したアグスティンの手腕は凄まじくて、一介の竜騎士が太刀打ちできるような相手じゃなかった。
拘束されてたった数日で、レティシアは断頭台に消えた。
救えなかったことをどれほど後悔したことだろう。
やんわりとでなく、もっと諌めれば良かった。処刑されてしまうという悲劇を、ほんの少しでも想像していたなら、こんなことにはならなかったかもしれない。
世界の全てが灰色になって、昼も夜もわからなくなった俺は、深い絶望に沈んで戻って来られなくなった。
レティシアは確かに過ちを犯した。税金を過剰に使い、国民を蔑ろにした。
だが人の命を奪ったわけじゃない。最初に不実だったのは、彼女を傷つけたのは、アグスティンの方だったじゃないか。
ああ、だけど。一番愚かなのは、俺だ。
竜の背中から降り立ったのは、王城のとあるバルコニー。風の魔法を使って窓をぶち破ると、絹を裂いたような悲鳴が鼓膜に突き刺さった。
灯りの消えた寝室のベッドの上で睦みあっていたのは、この国の国王と、まんまと王妃の座に収まった女だ。
「カミロ……⁉︎ お前、何を」
「さよならだ、アグスティン」
もはや何の感情も得ることが出来ずに、俺は無造作に剣を振るった。
不快な鉄の匂いが広い寝室に充満する。断末魔すらなく掻き消えた二つの命を前に、俺はひきつれたような笑みを漏らした。
ああ、本当に愚かだ。きっとレティシアはこんなこと望んでいない。こいつらを殺したって、もう二度と愛しい人は戻ってこないのに。
騒ぎを聞きつけた近衛兵たちが駆けつけてきて、俺はあっさりと剣で胸を貫かれた。
もう抵抗する気も起きなかった。レティシアのいない世界なんて虚しいだけだ。
なあ頼むよ、神様。
俺のことはどうなっても構わないから、どうかこの罪人の願いを聞いてくれ。
次の生でこそ、レティシアが幸せになれますように……。
——それなら、あなたが幸せにしてあげればいいじゃない。
透き通るような声が、聞こえた気がした。
***
魔法の実技試験にて、私は人生初の良を取ることができた。今までは可だったから、これでも随分と健闘した方だ。
すごく嬉しい。これはカミロ様に報告をして、お礼を言わないと。
私は足取りも軽く学園の廊下を歩いていたのだけど、あることに気づいて足を止めた。
(あ、でも……私みたいなのが公衆の面前で話しかけたら、迷惑かしら)
黒薔薇の私ならともかく、今の私は地味で冴えないガリ勉眼鏡。学園最底辺がスーパースターに話しかけたりしたら、あらぬ噂が立つかもしれない。
すごく残念だけど、やめておこうかな。うーんでも、それはそれで礼儀に反するし……。
「おい、お前がベニート侯爵令嬢か」
廊下にて立ち止まっていた私は、背後からよく知る声に呼ばれて全身を硬直させた。
まさか、そんなはず。でも、この声は。
嫌な音を立てる心臓を手で押さえて、ゆっくりと振り返る。
そこには案の定、アグスティン殿下が立っていた。二度目の人生でこんなにも接近するのは初めてだ。
もう関わりたくなんてないのに、どうして私に声をかけてきたの。
「あ……は、はい。レティシア・べニートと申します」
舌の根が震えて、声を出すのに苦労した。アグスティン殿下は冷たい瞳で一礼した私を見下ろすと、酷薄な笑みを浮かべた。
「お前のような冴えない女が、この私の婚約者となる栄誉を断るとはな」
馬鹿にしているのかと吐き捨てた声に、私はますます動けなくなる。
この方はただ婚約を断られたことに腹を立てているのだ。私みたいな底辺女に屈辱を味わわされたと思って、抗議するつもりなのね。
「お前、眼鏡のせいで顔が良く見えんな。不敬であるぞ」
「え……」
「眼鏡を取れ。そして断った理由を偽りなく述べよ」
アグスティン殿下は命令するのに慣れた調子で、当然のように言った。前の人生では堂々として素敵だと思った振る舞いに、今は嫌悪感しか感じない。
嫌だ。眼鏡だけは絶対に取りたくない。
だって私は、ガリ勉地味眼鏡になるって決めた。この人に関わらないって決めたの。
それなのにどうして、今生でも彼の望みを叶えなければいけないの。
「アグスティン、あまり俺のレティシアをいじめないでくれ」
その時のことだった。重たい怒りを含んだ声が聞こえたと思ったら、私は突如として温かい腕の中に抱き込まれてしまっていた。
突然のことに何が起こったのか理解できなかったけれど、見上げた先に誰がいるのかは、どうしてだか想像がついていた。
「カミロ様……」
助けてくれたの? いいえ、でも。今何だかとんでもないことを言っていたような。
「カミロ。今、俺のと言ったのか?」
そう、そうそう、そこよ。アグスティン殿下、ナイス指摘。
「ああ。昨日からレティシアは俺の婚約者になったんだ」
……何ですって?
え、婚約者? 婚約者ってあの婚約者? いやいやいやそんなまさか。
ああ、冗談か。そうよね、そうでなきゃ助けるために適当な嘘をついてくれたんだわ。うん、カミロ様っていい人だもの。
「つまり、私との婚約を断ったのは、お前がいたからだと?」
アグスティン殿下がますます視線を厳しくさせて言った。カミロ様は私を抱きしめる腕に力を込めて、一歩も引かない気迫で言い返す。
「そういうこと。レティシアは俺のものだから、アグスティンにはあげない。……絶対にだ」
いや別に、欲しがっていないと思いますよ。
私はツッコミをしたくて仕方がなかったけれど、両者の空気があまりにも張り詰めていたので口をつぐんだ。
「……ふん。馬鹿馬鹿しい」
やがてアグスティン殿下は不愉快そうに言って、その場を離れて行った。倒れそうなほどの安堵に見舞われた私は大きく息を吐く。
「レティシア、大丈夫か?」
「ええ、ありがとう」
そうしてようやくカミロ様からも解放されたのだけれど、ここが廊下であることを思い出して青ざめてしまった。
学生たちから放たれる大量の好奇の視線。
目立たないように生きてきたのに、どうしてたった数分でこんなことに!
「カ、カミロ様っ……! とにかく、ここを離れますよ!」
私はカミロ様の背を押して、強引に歩き始めた。
人気のない裏庭にやってきたところで足を止めた私は、同じく立ったままのカミロ様に向き直って開口一番問いかけた。
「どうしてあんなことを! これではカミロ様によくない噂が流れてしまいます!」
主に女の趣味が悪いとか、アグスティン殿下と仲が悪いらしいとか、そのあたりだ。
いくらなんでも申し訳なさすぎる。しかし困り果てている私を他所に、カミロ様は泰然としたものだった。
「よくない噂なんてどこにもないよ。君と俺が婚約したのは事実なんだから」
「……はい?」
「昨日のうちにべニート侯爵に許可をもらった。凄く喜んでおられたぞ?」
いい笑顔で告げられた衝撃の事実に、私は今度こそ固まった。
何それ。
……何それっ⁉︎
「どっ、どうして……⁉︎ 私と貴方は、昨日が初対面ですよね⁉︎」
「初対面じゃない。俺はずっと君のことが好きだった」
また信じられないようなことを彼は言う。けれど私の手を取って口付けを落とし、じっとこちらを見つめる若草色の瞳には、どこにも嘘なんてないように見える。
「黒薔薇の王妃。以前の君は手の届かない人だったけど、今のレティシアになら遠慮をしなくても良さそうだ」
そうして、衝撃ばかりが重なる中、私は今生でも最大の驚愕に見舞われた。
喉が渇いて声を発せない。頭がびりびりとした痛みを訴えて、いっそのこと気絶をしたいような気分になる。
それでも私は浅く息をして、なけなしの勇気を絞り出した。
「カミロ、あなた……覚えて、いるの?」
「ああ、一度目の人生で君と過ごした時間は全て覚えてる。
いや、昨日君が眼鏡をずらしてしまった時に、思い出したんだ」
「眼鏡って……」
(嘘でしょ⁉︎)
じゃあ、何か。
眼鏡を外したら美少女だったから驚いたわけではなくて、記憶を取り戻して呆然としてたってこと⁉︎
「レティシア、愛してる。今度こそ俺と結婚しよう」
「え、いや、ちょっと……? 私、まだ状況がよくわからないのだけど」
「何も難しいことはない。俺は君に愛してもらえるように努力する、君は俺の側にいる。ただそれだけでいいんだ」
じり、とカミロが近づいてくる。同じだけ後ろに下がったつもりだったのに、素早く伸びてきた腕が腰に回って、あえなく抱き寄せられてしまう。
さっきアグスティン殿下の前で抱きしめられた時は驚きすぎて何も感じなかったけれど、今度の私は情けないくらいに赤面した。
伊達眼鏡の向こう、若草色の瞳が暗い熱を帯びている。
頬が熱くて仕方がなくて、全身が細かく震えていた。壊れ物でも扱うような動作で眼鏡に触れたカミロが、最後の砦を取り払ってしまう。
「君がいなくなったら俺は狂う。頼むから、諦めて俺と共に生きてくれ」
遮るものの何一つない視界で懇願ばかりが滲んだ若草色を見ていられたのも、ほんの短い時間のことだった。
何か言おうと開きかけた口を熱い唇が塞ぐ。
一度目の人生と併せても初めてのキス。カミロは少しも容赦をしてくれなくて、私は途中で広い胸を叩いて抗議しなければならなかった。
「レティシア、返事は?」
息も絶え絶えになった私に、カミロが目を光らせて問いかけてくる。もう何が何だかわからなくなって頷いた瞬間、またしても唇を奪われてしまった。
ああ、一体何が起こっているのかしら。
とんでもないことになったのは解ったわ。だけどガリ勉地味眼鏡になって平穏に生きていく目標は、まだ諦めてないんだからね……。
〈終〉
お読みいただきありがとうございました。
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