クソみたいな世界
クソみたいな世界だった。
そして、クソみたいな家だった。
クソみたいな世界だから、そんな家になってしまったのか。クソみたいな家で育ったから、そんな世界になったのか。
ぼくには分からない。でも、それはきっとイモリとヤモリがどう違うのかと同じように、どちらでもよい類いの話なのだろう。
真夏の暑い日だった。ぼくが高校から帰ってくると、家の中で父親が首を吊っていた。遠目からだと父親の体は前後に小さく揺れていて、まるでロープにぶら下がって遊んでいるかのように見えたのが不思議だった。
ワイシャツの下に着ていたTシャツが汗に濡れて、肌に貼りついている。父親の首を吊った姿よりも、濡れたTシャツが肌に貼りつく感覚。それの方がぼくには不快だった。
その不快感を抱えたままで、首を吊っている父親にぼくは無言で近づく。そして宙に浮いている父親の両足を握って、三分ほど力の限り引っ張った。何かの拍子で生き返っては困ると思ったのだ。
ろくでもない父親だった。酒とギャンブル。それだけがきっと生きがいだった。同じようにクズみたいな母親は、とっくの昔に若い男と一緒に逃げて行方知れずだった。
父親からも母親からも、子供の頃からぼくはよく殴られた。特に父親からは、酔った後で頻繁に殴られたものだった。でも中学二年の時に、ぼくが父親を殴り返してからはその暴力もなくなってしまう。
そのことだけを切り取ってみても、本当にどうしようもない父親だとぼくは思う。
全力で父親の足を引っ張っていたせいで、ぼくは汗だくになっていた。エアコンなんて、もちろんこの家にあるはずもない。
ぼくは荒い息をつきながら、キッチンに行って頭から水道水を被ってみた。分かってはいたが、生暖かい水が出てくるだけで清涼感には程遠い。
さて、どうしたものかとぼくは思う。正解は救急車や警察を呼ぶことなのだろうが、今すぐにそれをするのは煩わしかった。髪の毛から滴る水を手の甲で乱暴に拭いながら、ぼくはキッチンの床に座り込んだ。
これからぼくはどうなるのだろうか。父親は勝手に死んでしまい、母親は若い男と逃げて行方知れず。
そんな彼らの子供であるぼくを引き取る親戚なんているはずもない。親戚とはいってもこのクソみたいな一家には、もはや誰も関わり合いになりたくないはずだった。
両親に代わってぼくの面倒をみてくれる者がいないとなれば、ぼくの施設送りは決定事項となるのだろう。
そこまで考えて、ぼくは少しだけ溜息をついた。
まあいいかとぼくは思う。高校を卒業するまで、あと一年半。大して長い時間ではない。高校を卒業したら寮付きの工場などで、ろくでもない仕事をすればいいだけなのだ。
そう考えると自分の人生は今までも、そしてこれから先もクソみたいだと心の底から思った。
ぼくの周りには腐ったもの以外、何もないようだった。手に触れるものが嫌でどこかに手を伸ばしたとしても、必ずクソにぶつかってしまう。
「くそっ」
ぼくは両手で濡れた頭を掻き回して、目尻に力を込める。そうしなければ、望みもしないのに涙がこぼれてしまう気がした。
本当にどうにもならない父親だった。駄目人間の見本になれそうな父親だった。
酒とギャンブルと借金。そして酔って子供をぶん殴る。それだけで構成されているかのような人間だ。首を吊った後でさえ、生き返らないようにと子供に両足を引っ張られてしまうような父親だった。
だけど、少しだけ悲しかった。
そう。ほんの少しだけ、ぼくは悲しかったのだ。
時刻は二十三時。ぼくが通う高校の校舎に人影はない。月明かりに照らされた校庭を横切って、ぼくは昇降口に向かった。考えてみれば当たり前なのだが、昇降口の扉は閉じられていた。
いつも当たり前に開いていた物が閉じられているのを見ると、なぜか、居心地の悪さを感じてしまう。その事実が少しだけ不思議だった。夜中に高校へ来たことなんてなかったから思いもしなかったが、そもそも夜に戸締りがされているのは当たり前のことなのだろう。
困ったなとぼくは思う。特に目的があって高校の校舎へ来たわけではない。あえて言えば、父親の死という非日常から逃れて本能的に高校という日常の中、そこに身を置きたかっただけなのかもしれない。
中に入れず困っていると、隣りにある教室のカーテンが外に出て揺れていることに気がついた。その窓に近づくと、やはり窓は開け放たれている。ぼくは土足のままで、その窓を乗り越えた。
月明かりだけに照らされた薄暗くて静まり返っている教室。音もなく、まるで時が止まっているようでぼくは息苦しさを感じる。そして、そこは限りなく気味が悪い世界だということをぼくは初めて知った。
薄暗くて教室の隅まで視界が届かない。その視界が届かない先には、何か得体の知れないものが潜んでいる気がしてくる。
首を吊っていた父親の死体には、何ら恐怖めいたものは感じなかった。ぼくが感じたものは、後始末の面倒臭さだけだった。それなのに夜の教室では恐怖を感じる。不思議な話だなとぼくは思う。
校舎内に入れたのはよかったが、やるべきことなんて特に思いつかなかった。取りあえず、ぼくは目的もないままで二階にある自分の教室へ向かうことにした。やはりそこが自分の居場所である気がしたのだ。
静まり返った夜の校舎内は、扉を開け閉めする音や廊下を歩く音、その何もかもが異様に響き渡るようだった。その音がぼくの中で、再び少しの恐怖心を呼び起こしてくる。
持ち上がってくる恐怖心を持て余しながら廊下を曲がった時だった。視線の先にある薄闇の中、宙で揺れる黒く長い物があった気がした。
一瞬、驚いてぼくは足を止めた。加えて微かに何かの匂いがする。耳を澄まして目を凝らして見たが、それがあった気がしたところには何もないし何の気配もない。感じたはずの匂いすらも、恐怖心からくる勘違いだったのだろうか。
子供じゃあるまいし。
ぼくはそう思って苦笑した。
廊下を曲がってさらに階段を登り、ぼくは二階にある自分の教室へと入った。そして自分の席に座る。静まり返っている薄暗い教室。規則正しく並べられている机たちは、誰かの記憶を抱いたままで眠っている遺物のようだった。
見慣れた風景のはずなのに、どこか違和感を覚えてしまう。まるで現実とよく似ているだけの異なる世界に迷い込んでしまった気さえしてくる。
父親が自殺していること。明日には、さすがに警察へ通報しなければならないだろう。その後にきっと訪れる様々な面倒なこと。それを考えると、どうにも気が重くなっていく。
ここでぼくは気がついたことがあった。もしかするとこの高校に来るのも、これが最後になるのかもしれない。
ぼくがどこの施設に行くことになるのか。分かるはずがないのだけれども、今までと同様にこの高校に通える理屈はどこにもなかった。
けれど、それも大した問題ではないと、ぼくはすぐに思い直す。そもそもこの高校にぼくがこだわる理由はどこにもない。親しい友達だっていやしないのだ。一か月もすれば生徒も先生も、ぼくがいたことなんて簡単に忘れてしまうだろう。
ぼくは溜息を少しだけついて、自分の席から立ち上がった。一瞬、教室に残っている私物を片づけようと思ったのだが、すぐにそれは馬鹿らしくなった。
ぼくが残した私物なんて誰かが適当に処分するだろう。大した私物があるわけでもないし、ならば別に今ここでぼくが片づける必要もない。
そうしてぼくは引き寄せられるように、屋上へと足を向けたのだった。
校舎の屋上は少しだけ風が吹いていた。昼間はあれだけ蒸し暑かったのに、夜風は涼しくて心地よかった。父親が首を吊った理由なんかに興味はなかったけれど、昼間がやたらと蒸し暑かったことも理由の一つなのかもしれない。
引き寄せられるようにして屋上に来たのだが、別に悲観して屋上から飛び降りようと思ったわけではない。ただ高い所に行けば、何かが少しだけ変わるような気がしたのだ。でも屋上に来たぐらいで何かが変わるはずもない。
そんなことは分かっていたさ。
ぼくは心の中で呟く。
屋上で腰を下ろして、ぼくは自分の背を壁に預けた。片足を立てて膝の上に片腕を載せる。その姿勢で改めて屋上を見渡す。月明かりに照らされた屋上は、校舎内と同様にどこか薄気味悪かった。
薄気味悪い屋上……。
クソみたいな世界だとぼくは思う。その中にいる父親、母親、高校、そして生徒……すべてが腐っていた。
クソみたいな世界。これは呪いの言葉なのだろうか。思えば思うほど、何もかもが腐った世界になってしまうのか。その腐った世界の中心にぼくはいるのだろうか。
いや、違うな。ぼくがクソなのか。だからぼくの周りは何もかもが腐っていくのか。
どちらにしても、そこには絶望しかないように思えた。ぼくは目尻に力を込める。こんなことで涙なんて流したくはなかった。
「誰だ? お前?」
不意に右手の暗闇から声をかけられた。そこには黒い人影がある。
時間は二十三時を過ぎているはずだった。校舎内に誰かがいるとは思っていなかったので、ぼくはさすがに驚いてわずかに腰を持ち上げた。
暗闇の人影が月明かりに照らされ、近づくにつれて段々とそれが明瞭になっていく。
……体育教師の田中か?
腰を浮かしかけていたぼくは慌てて立ち上がる。
「お前、二年の……こんな所で何をしてる? お前、見てたのか!」
そんなことを喚きながら、怒りの表情で体育教師が近づいてくる。迫ってくる体育教師をよく見ると、なぜか下半身のズボンと下着が膝の上あたりまで下がっている。
急に視界に入ってきた想像外の出来事。ぼくは目の前の状況を頭の中で処理仕切れずにいた。
「い、いえ……」
ぼくは不明瞭な言葉を返しながら、反射的に両手を前に突き出した。下半身を露出しながら、怒りの表情でぼくに迫って来る体育教師を押し留めようとしたのだった。
体育教師は突き出されたぼくの両手を邪魔だと言わんばかりに片手で強く払うと、両手でぼくの胸元を掴んで持ち上げた。胸元で持ち上げられたぼくは、つま先立ちとなってしまう。
そして次の瞬間、ぼくは後方に強く突き飛ばされた。
間を置くことなく後頭部に強い衝撃があって、ぼくの意識は暗闇に飲み込まれた。
気がつくと、ぼくは病院のベッドで寝ていた。後頭部と首に強い痛みがある。後に警察から聞いた話だが、あれから大騒ぎとなったらしい。
校舎の屋上には、頭から血を流した意識不明の生徒。その校舎の下には、屋上から身を投げた体育教師の死体。さらに屋上で倒れていた生徒の家からは、父親の自殺死体が発見される。
当事者のぼくが聞いただけでも、何が何だか分からないような話だ。
結局、警察はぼくの証言から、誤ってぼくに怪我を負わせた体育教師が発作的に自殺。父親の死は単なる自殺であって、高校での一件とは何の関連もないと結論づけたようだった。
首を吊っている父親を放置したことや、遅い時間に高校に行ったこと。それらをこと細かに警察から事情を訊かれたのだったが、辻褄が合うようぼくは適当に答えた。
身を投げた体育教師のズボンと下着が膝の上まで下げられていたが、襲われた時はどうだったのか。最後に警察からそう訊かれたのだったが、ぼくはよく覚えていないと答えた。
それ以上は、警察の質問に答えるのが面倒だとの思いがあった。自殺した体育教師の下半身が丸出しだったということ。それが死ぬ前からなのか、そうではなかったのか。ぼくにはどちらにしても関係のない話に思えたのだった。
やれやれだなとぼくは思う。何だかよく分からないまま、屋上で体育教師に襲われて頭に怪我をした。とてつもない災難だった。
しかも襲ってきたのは、下半身を露出した体育教師なのだ。言葉だけを見ると笑えてくるのだが、襲われた当事者としては笑えない。
でも一方で、なぜ体育教師があんな場所で下半身を露出していたのか。その真実に少しだけ興味もあった。あんな時間に体育教師は屋上で何をしていたのだろうか。普通に考えれば、彼に特殊な性癖があったといったところなのか。
後頭部でズキズキと痛む傷口を持て余しながら、ぼくがそんなことを考えていた時だった。ベッドの脇に立つ影があることにぼくは気がついた。
視線を向けると、所在なさげに女子生徒が立っている。
確か同じクラスの……。
「災難だったわね。はい、これ学校から渡されたプリントよ」
ぼくが顔を向けると彼女は特に挨拶をするわけでもなく、感情が全くこもっていない声でそう言う。そしてクリアファイルに入れられた数枚のプリントをぼくに差し出した。
ぼくは反射的にそのクリアファイルを受け取る。
ぼくの記憶だと彼女はクラスの中で決して目立つタイプの生徒ではなかった。容姿にしても特に目を引く生徒でもなくて、いたって普通の女子高校生だった。ただ一つ特徴をあげるとすれば、黒目がちの瞳が印象的な子ということぐらいだろうか。
「大丈夫なの?」
彼女はそうぼくに声をかけた。そこにはぼくを心配しているといったような響きはなかった。話すことが見つからないから、仕方なくそれを口にしたという感じだ。
「まだ痛むけど、まあ、大丈夫かな」
「そう。大きな怪我じゃなくてよかったわね。お大事に。用もあるし、私はもう帰るわね」
彼女は素っ気なくそう言って踵を返してしまう。自然とぼくは背後を向いた彼女の後頭部に目を向ける。ぼくの中で嫌な胸騒ぎが起こった。
それに先程から感じていたこの微かに香る匂いは、あの夜と同じ……。
「なあ……」
ぼくは病室を出ようとする彼女の背中に声をかけた。彼女が足を止めて振り返る。
「その頭のお団子、下ろすとかなり髪が長くなるのか?」
彼女は意味が分からないと言った感じで訝しげな顔をする。
「そうね。かなり長いわよ」
「学校以外では髪を下ろしたりするのか?」
「学校では邪魔になるから、こうしてまとめているだけよ。普段は下ろしていることが多いかしら」
「そっか……」
感情がこもっていない彼女の声を聞いていると、さらに強い胸騒ぎを感じてくる。彼女はぼくを見て少しだけ微笑んだ。嫌な笑い方だとぼくは直感的に思う。
「学校を辞めるって噂だけど、本当なの?」
「まあ、色々あったしな。そうなるんじゃないかな」
ぼくの声は少しだけ掠れていたかもしれない。
「ふうん」
彼女はそう言って少しだけ考える素振りを見せた。
「一つ、面白い話をしてあげようか?」
彼女はそう前置きをして、ゆっくりと抑揚のない声で話し始めた。
……一人の女の子は暇を持て余して学校の先生と付き合い始めました。女の子にとってそれは暇つぶしでしかなかったのに、女の子の思いに反して先生は本気になってしまいました。
夜に呼び出されるのもいい加減面倒だなと女の子が思っていた頃、間抜けな格好で屋上に佇む先生がいました。
さっきまで鼻息を荒げた先生に咥えさせられていたことや、これまでのことに女の子は急に怒りを覚えました。
そして女の子はその先生の背中を優しく押してあげました。
彼女はそう言い終えると、感情のない顔でぼくを黙って見つめた。
嫌な顔だった。
ぼくは思い出す。
子供の頃、ぼくを殴る前に父親も母親もよくこんな顔をしていた。
「あの時、廊下で見かけたのはお前だったのか?」
彼女は小首を傾げて見せた。彼女の印象的な黒目がちの瞳が不気味な光を湛えている気がする。
「さあ、何のことかしら? 今の話は冗談よ。面白い話って言ったじゃない。忘れなさい」
彼女はそう言って振り返ることなく、唖然とするぼくだけを残してその場を後にした。
……忘れなさい。
抑揚のない彼女の言葉が繰り返し頭の中で響いている。
……一体、何を?
彼女が去って行った後も、彼女が浮かべたあの嫌な顔が頭から離れていかない。それは脳裏で粘つくゴミのようだった。
あの時に彼女が浮かべた嫌な顔。その顔が小さかったぼくを殴る父親、そして母親の顔と脳裏で重なっていく。
息苦しい。
父親の首を吊ったロープが、まるでぼくにも絡まっているかのようだった。ぼくは喘ぐようにして口を開けて再び閉じる。
「……クソみたいな世界だ」
喘ぐように呟くぼくは今、どんな顔をしているのだろうか。