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翌朝、俺は珍しく早く起き、制服に袖を通した。ズボンもはき変える。テキトーに教科書を詰め込んだ鞄を手に、俺は部屋を出た。
階段を下り、途中に鞄を置いて洗面所へ。
顔と歯を洗って、髪を軽く整える。鏡の前でキラッ☆ とポーズを決め、洗面所を速やかに立ち去った。
階段に置いておいた鞄を手に取り、玄関にて真っ赤なスニーカーを履いた。
「ハルカ、学校行くの?」
俺の所作に気が付いたらしい母親が、リビングから顔を出した。俺は何も反応を示す事なく、黙って家を出て行った。
久しぶりに、学生として歩く通学路。いつもと変わらず、学生達が歩いている。皆、友達とだべったりしてて楽しそうだ。俺はそんな奴らを横目に、ただぼんやりと歩いていた。
空を見上げれば、澄んだ青が何処までも広がっていた。鳥達が飛んでいるが、ハートの天使の姿は何処にもなかった。そういや、朝目が覚めた時にはすでにいなかったな。
頭が空っぽのまま、いつの間にやら校門前に辿り着いていた。
校門の両脇には生活指導の教師が立っていて、制服を着崩している生徒、髪の色が不自然な生徒、化粧やピアスをしている生徒が教師からの厳しい指導によって足止めをくらっていた。
俺は何も問題がなかった為、すんなりと門を潜る事が出来た。ただ、右側の若い男性教師がチラリと俺の方を振り向いたけど。左側の厳つい顔の中年男性教師はあまり関わった事がないが、右側の教師の事は知っていた。放課後によく他愛もない会話をした。きっと、久しぶりに見た俺の姿が気になったんだろう。
俺はさっさと下駄箱に向かい、靴を室内用の物と履き替える。そこで何人か同じクラスの連中と擦れ違ったが、お互いに見て見ぬフリ。前までは「おはよう」って挨拶を交わしていたんだけどな。少し淋しいが、今はそれでいい。
階段を上がり、二階の廊下を歩く。少し早足で。
まだチャイムが鳴る前で、暇を持て余した生徒達が廊下に溢れてだべったり、ふざけ合っている。時折、俺に気が付いた奴も居て、隣の奴にヒソヒソと耳打っていた。
どうせ何を言っているのか見当が付くし、俺はあまり気にしなかった。逆にそいつらに睨み返し、怯えさせておいた。
自分の教室の前まで来た途端、俺の足は自然と止まった。教室に入るのが恐い訳じゃない。俺は見てしまったんだ。四人の男子に囲まれているナツミの姿を。
俺はそれに気が付かない風をして、耳を澄ます。
「渋谷さーあんな奴の何処がいいワケ?」
「渋谷スゲー美人なのに、なーんかもったいねー」
「いっそ、俺と付き合っちゃう? なんて」
「そりゃ、いいぜ。あははは!」
四人の男子の笑い声が反響する。アイツら俺はともかく、ナツミを馬鹿にするなんて! 許せない。一言文句でも言ってやろうと、アイツらの方に爪先を向けた。――――が、
「ハルはキミたちよりも何倍も勇気があってすごい人だよ! 私信じてるもん……ハルが戻って来るって」
ナツミの強い口調に気圧され、男子達は散っていった。
そうか……ナツミはいつもそうやって、俺の見えない所で戦ってくれていたんだ。それなのに、俺は引き込もり生活がまんざらでもないって……独り楽しんで。一番大切なものから目を背けていた。本当はもう、面倒事に巻き込まれるのが嫌だったんだ。
でも、もう甘ったれた事を言っている場合じゃない。
ここには俺を待ってくれている人が居る。俺の為に必死で俺の居場所を護り続けてくれている人が居る。だから、俺はそれに応えなくてはいけない。
俺は教室に足を踏み入れた。途端、一気に室内のざわつきが増した。
容赦なく罵声の矢が俺の心に突き刺さる。自分は無関心で無関係だと目を背ける奴らの態度が俺の心を抉る。それでも俺は後戻りはしなかった。目指すのはそう……彼女が護って来てくれたもの。窓際の後ろから二番目の俺の席。俺の居場所。
扉からそう離れていないが、精神的にやっとの事でそこへ辿り着いた。そして、俺は落胆した。
「何だ…………これ」
机のど真ん中に花瓶が置かれていて、そこに差さっている一輪の白い花が風に揺れた。
俺が驚愕しているのを隣の席の男子はクスクスと笑っていた。
「いなくなったお前の為にお供えしておいたんだよ」
他の数人の男女も、クスクスと笑い出した。再び、俺に罵声を浴びせる。
「ようやくいなくなったと思っていたのに」
「何で戻って来たの~?」
「お前なんて目障りなんだよ」
「消えてればよかったのに」
何なんだ。この屈辱は。俺は何も言い返せないまま立ち尽くしていた。
視界の端で、一人の女子が歩いて来るのが映った。ナツミだ。そう分かった瞬間、俺の中の何かが音を立てて外れた。気が付けば、俺は叫んで花瓶を手で払い飛ばしていた。
「そんなに俺が嫌ならお前らが消えろよ! その方が早いだろ!」
周りはしん……と静まり返った。
俺は荒い息遣いで椅子を引き、座った。
――――キーンコーンカーンコーン。チャイムが鳴り響いた。
南校舎と北校舎を繋ぐ屋外の渡り廊下。校庭が一望出来るその場所で、俺はコンクリートの柵に肘を付き黄色く染まり始めた青空を見上げていた。やっぱり、天使の姿はない。いや……そもそも、それ事体が夢だった様に思えた。
「ハル!」
名前を呼ばれ、反射的に顔を声のした方へ向けた。
「ナツミ」
南校舎側の開いた扉の前に立って居たナツミは、ゆっくりと俺の隣まで歩いて来た。
二人で並んで校庭を眺めた。ポツポツと鞄を提げて校門へ向かう生徒達が見えた。
ナツミは視線を俺に向け、穏やかな顔をした。
「ハル、よく言ったね。偉いよ。それでこそ、私の知ってるハルだ」
俺は面映くて、右手で頭を掻いた。
「そんな事ねーよ。……ナツミが居てくれたからさ、俺は頑張れたんだ」
「えへへ。私のおかげだね♪」
ナツミは悪戯っぽく舌を出して笑った。
俺は呆れ、軽くナツミの空っぽの頭を叩いた。
「調子に乗んな」
「ひっどいなぁ」
頭を押さえるナツミだが、顔はまだ笑っていた。
……全く、コイツと来たら。昔からその能天気さは変わっちゃいない。まあ、それに俺はいつも救われていた訳だけど。今だって……
「ナツミ」
「なあに?」
ナツミがあどけない顔で俺を見上げ、俺は右手をナツミの頭にそっと乗せた。
「ありがとうな」
俺は心の底から笑った。
気のせいか、ナツミの頬が紅潮した。
ナツミは小さく頷き、俺が手をどけると背中を向けてしまった。
「どうした?」
少々不安になって声を掛けると、ナツミの声が微かに聞こえた。だが、ちゃんと言葉として伝わって来ない。俺が訊き返すと、途端にナツミが頬を紅潮させて向き直った。
「好き! 私、ずっと……ずっと、ハルの事が好きだった!」
「ふえ?」
あまりに突然すぎて、つい俺は間抜けな声を出してしまった。
ナツミは潤んだ瞳で、じっと俺を見つめていた。
俺は胸に手を当てて心臓を落ち着かせた後、一言一句気持ちを込めて言葉を紡いだ。
「ナツミはガキの頃からずっと一緒だったな。思えば、俺をここまで支えて来てくれたのはナツミだ。ナツミがいなかったら俺、もうとっくにダメな奴になっていたかもしれない。…………俺だって、ナツミの事が好きだった。俺にとってナツミは特別な存在なんだ。――――好きだ!」
さっきまで微かに吹いていた風が止み、外部の音も聞こえなくなった。まるで、俺達のいる空間だけ、時が止まったかの様に。
向き合っていた俺とナツミは急に恥ずかしくなって、互いにそっぽを向いた。
校内に、子守唄の様な優しい曲調のメロディが流れ出した。
校庭をさっきとは三倍以上の数の生徒達が足早に去って行く。
「もう帰らないとね!」
ナツミは俺の方を向いて、ニッコリと笑った。
「そうだな。帰ろうか」
俺とナツミは歩き始めた。
橙に染まった夕日坂。並んで歩いていた俺とナツミはそこで立ち止まり、お別れだ。
「それじゃあ、ハル。また明日ね!」
「ああ」
ナツミは背を向けたが、足を一歩踏み出す前に何か思い出した様にバッと俺の方を振り返った。
「そうだ。今週の土曜日、遊園地に行こうね!」
行こうねって……もう行く前提かよ。
勿論、俺はこう答えた。
「ああ!」
俺の返事を聞くと、ナツミは満足げに歩いて行った。
ナツミが居なくなった場所に、奇妙な影が一つ浮かび上がった。視線を少し上にやると、穏やかに笑う天使が居た。
「梅田様…………リア充ですね♡」
「う、うるせーよ」
俺の頬は熱くほんのり赤くなっている事だろう。だけどそれは夕日のせいなのか、照れているからなのか、俺自身にも分からなかった。
「つーか、アイリーン。急に現れて何なんだよ。茶化しに来たのか?」
「えー人聞き悪いですね♡ もうお忘れですか? 梅田様、まだお世話料をお支払いしていただいてないんですよ?」
「あ……そうだった」
アイリーンは微笑み、俺に両手を差し出した。
「梅田様はもう十分持っているハズでしょう?」
「ああ……沢山もらった。溢れてしまうくらいな」
俺の体内から形こそないが、何処か温かくて心地良いモノが光となって溢れ、アイリーンの両手に納まった。アイリーンはそれをそっと包み込み、満面の笑みを浮かべた。
「はーい♡ 確かに頂戴いたしました。天使のホームヘルパーをご利用いただき、どうもありがとうございましたぁ♡」
そうして、天使アイリーンは俺の前から姿を消した――――。