愛が足りませんよ? 梅田様♡
小鳥の囀りが聞こえ、カーテンの隙間から日の光が差し込んだ。
朝が来た事だけは理解したが、俺の意識は朦朧としていた。
「………て………い」
ん? アニメボイスが聞こえる。俺、昨夜テレビでもつけっぱで寝ちゃったか?
「………て……さい!」
まだ聞こえるアニメボイスと共に、身体が揺さぶられる感覚。俺はゆっくりと瞼を持ち上げた。
ぼやけた視界に映るのは……――――女の胸!? もう少し視線を上にやると、超萌え顔があった。
「起きて下さい! 梅田様!」
今俺の枕元で俺を見下ろし身体を揺らしていたのは、昨日の俺の妄想――――天使アイリーンだった。
俺は慌てて身体を起こし、驚いた顔でアイリーンを見た。
「お、お前……な、何でいるんだ!?」
「何でと言われましても……お世話料をお支払いしていただいておりませんので」
狼狽えている俺とは違い、アイリーンは冷静だった。
何だ。昨日の事は俺の妄想じゃなかったんだ。半ば安心をした俺だが、今のアイリーンの台詞で一つ気になる箇所があった。もう一度、アイリーンの台詞を脳内で再生してみる。
――――何でと言われましても……お世話料をお支払いしていただいておりませんので
お世話料? お世話料だと!? な、何なんだ……それは。でも、俺…………
「金、持ってねーんだけど」
俺が気まずそうにそう答えると、アイリーンは小首を傾げてその後にっこりと笑った。
「お金は要りません」
「でも、今“お世話料”って……」
俺の頭は混乱していた。
アイリーンは両指でハートの形を作り、ウィンクをした。
「愛です! お支払いは愛でお願いしまーす♡」
「…………はっ?」
俺はポカンとしてしまった。
どうしよう……コイツ、電波だったー……。いや、そんな気がしてたけど。これ程までぶっ飛んでる奴だとは。
まあ、だが……何か言わないと話が進みそうもないので、真面目に答えてあげた。
「愛……も持ってないよ、俺」
「ですよねー」
笑顔で返すアイリーンだが、その前の微妙な間は何だったんだと俺は心底不安になった。俺は選択ミスをしたのだろうか? もしそうなら、この後悲劇が俺に襲い掛かる事だろう。
アイリーンが俺に向かって手を差し出す……。
ヤバイ。
そのまま頭を掴まれて、例の大鎌で首を狩られる!
逃げ出そうとした俺。でも、腕を掴まれた! もう逃げられない……。
「さあ、行きましょう?」
い、逝くって何処へ!? ま、まさか地獄か!?
俺はアイリーンに抵抗出来ず、半ば引き摺られる様に部屋の外へ連れ出された。恐怖を感じていたのもあるが、何よりもアイリーンの力が思ったよりもスゴすぎた……。
そうして俺が連れて行かれた場所は、朝日の眩しい町中だった。何だか拍子抜けだ。
今日は休日なのか、家族連れが多く見られる。小中学生の集団もチャリで歩道一杯に広がって走って行く。
学校に通っていた頃は毎日通っていた道だ。もうきっと、その為に通る事はないんだろうな。少し切ない気分。歩道脇に植えられている青々とした木々を眺め、俺は思いに耽けていた。
「梅田様! 早速愛を稼ぐ事が出来ますよ!」
アイリーンの高い声が俺の思考を強制的に終了させ、俺は訳の分からない現実世界へと舞い戻って来る事になった。
「愛? 稼ぐ?」
何のこっちゃ分からん。とりあえずアイリーンを見ると、アイリーンは歩道橋の前で荷物を置いて立ち往生している婆ちゃんを指差していた。
…………なるほど。あの婆ちゃんに救いの手を差し伸べれば良いんだな?
「手伝います!」
俺は婆ちゃんに駆け寄り、婆ちゃんの荷物を持った。
い、意外と重いぞ……。しかし、今更引き下がる訳にはいかない。俺は精一杯の笑顔を作った。
「家まで運ぶんで、道案内お願いします」
「おお……そうかい。悪いねえ……すごく助かるわあ。私の家はね、道路の向こう側の方にあるの」
……って事は、まずこの歩道橋を渡らないと行けないな。
目の前に立ちはだかる階段に、少しばかり腰が引ける。荷物持ってるだけでこんなに腕がプルプルしてんのに、階段なんて上がる事が出来るのか?
婆ちゃんがニコニコしながら、俺が動き出すのを待っている。
そうだ……自分から手伝うなんて言っておいて、それを放棄するなんて最低な人間だ。俺はそういう“他人の事を考えない自分勝手で最低な人間”にはなりたくないんだ。
俺は一歩踏み出した。階段を一段、一段と、ゆっくりだが確かな足取りで上ってゆく。婆ちゃんも手摺りを頼りにしながら、ゆっくりと俺の後について来ていた。
「はあっ……」
苦労して渡りきった歩道橋の下で、俺は一旦荷物を置いて息を吐いた。
俺は呼吸を整えて荷物を持ち直した後、婆ちゃんを振り返った。
「次はどっちへ進めばいいですか?」
「そこの細ーい道を真っ直ぐよお」
「りょーかいです」
民家の外壁の間の細い道を進んだ。
今度は前、右、左、に分かれ道。婆ちゃんに訊くと、「右」と答えたので右へ進む。
その後……
右右左右前右……ちょっと間違えたので後ろへ戻り、左。
次は……
前前右右右前前左前前前前前左(ゲームの隠しコマンドみたいだ)と進むと、婆ちゃんの家に到着! 思っていた以上に遠かった。もう、俺の体力は限界だった。
「ありがとうね。良かったら、お礼にお茶を飲んで行かないかい?」
婆ちゃんは優しく微笑んで、俺を自宅へと誘う。疲れていた俺にとってそれは、甘い誘惑。つい、誘いに乗ってしまいそうになったが、俺は歯を食いしばり首を激しく横へ振った。
「い、いいですっ! せっかくですけど、それはお断りします」
だって、それ目的で手伝ったみたいで俺が嫌だもん。
婆ちゃんは少し残念そうな顔をした。
「そうかい? とっても親切な子なのねえ。本当に助かったわ。ありがとう」
「どういたしまして。では、失礼します」
俺は婆ちゃんに頭を下げ、その場を立ち去った。
それにしても……人に礼を言われるなんて、すごく久しぶりだ。何だろう……心がこう……。
「偉いじゃないですか♡ 梅田様」
不意に声がした。
振り返ると、そこにはアイリーンがいた。俺は溜め息を吐いた。
「お前……何処に居たんだよ」
「ずっと梅田様の後をついて回っていました♡」
「そうかよ。少しは手を貸してくれても……」
「あ! 梅田様! あそこで子供が泣いていますよ!」
今度は前方、道路沿いの木々の脇で泣き喚いている5歳ぐらいの男の子が居た。迷子にでもなったのか?
俺は男の子に駆け寄った。
「おい、どうした?」
男の子は泣いてばかりで、俺の方を見向きもしない。これじゃあ、俺もどうしてやる事も出来ないな。だが、このまま放置するのも心が痛む。何か……男の子の気を引くものがあれば、話が聞けるかもしれない。
俺は辺りをチラチラ見る。隣のアイリーンと目が合った。
…………あ、そうだ。
俺はアイリーンから視線を外し、再度男の子を見た。
「こっちを見てくれ。可愛い天使が居るぞ」
「てんし……?」
男の子は一度泣き止み、こっちを見た。が、すぐにまた泣き出した。
「てんしなんていないよぉーっ」
半ば怒った様な声色だ……。
てか、俺の真横に天使いるんだけど。……もしかして、“天使”には見えなかったか?
俺は柄にもなく、優しく丁寧な口調で男の子に話し掛けた。
「ほら、よく見て? お兄さんの隣にピンク色の髪の……」
「だから、だれもいないよぉっ。おにいさん、ひとりじゃないかよぉーっ」
男の子は余計に泣き出してしまった。
俺はもうどうしたらいいのか分からない。それに、いくら俺がアイリーンの事を話しても、男の子は「いない」の一点張り。ますます訳が分からない。
困り果てた俺がアイリーンをちらりと見ると、彼女も困った顔をしていた。そして、信じられない台詞を口にした。
「わたしたち天使の姿って、サービスをご利用いただいている方以外には見えないんですよねー。声だって聞こえないみたいなんです」
ちょ、ちょっと待て。今更何て事を言い出すんだ。それじゃあ、今までの俺の会話や行動は全て、周りの人間から見たら俺の一人芝居に過ぎなかったって事か!? 幸い、本日はそこまで人と会ってないけど…………いや、俺の見えない範囲でそれを黙視していたという可能性も! その上、俺はこの男の子に何て事を言ってしまったんだ。これじゃあ、変態と思われても仕方ない……。ま、まあ……泣いてるし、きっと俺のアホな発言なんて覚えてないだろう。そういう事にしておこうか。
「梅田様! 梅田様! 梅田様ってば!」
おっと。考え事に夢中で、アイリーンが呼んでる事に気が付かなかった。俺は済ませた顔で返事をした。
「はい、はい。聞こえてるよ。そんなに慌ててどうした?」
「あそこに風船が引っ掛かっています。もしかしたら、男の子はそれで泣いていたんではないでしょうか?」
なるほどな。アイリーンの言うように、木に青色の風船が引っ掛かっていた。恐らく、あれを取ってあげれば男の子は泣き止むだろう。
俺は木の真下に行って手を伸ばす。少し背伸びしてみる。さらに、ジャンプもしてみた。……が、全く風船に手が届かない。こうなったら、木に登るしかないか。木に登った事ないけど。
俺は木の幹を両腕でしっかりと抱き締め、勢いを付けて足をかけた。
すると、身体がふわりと浮いた。視線はぐんぐん高くなっていく。背中には誰かに掴まれている感覚。そっと振り返ると、俺の背中を掴んで飛んでいるアイリーンが居た。
「梅田様、今ですよ!」
「お、おう!」
俺は右手を伸ばした。見事に風船をゲット!
アイリーンに地上まで降ろしてもらい、俺は青い風船を持って男の子のもとへ。
屈んで男の子に風船を手渡した。
「ほら、お前のだろ?」
「あ……」
男の子は泣き止んで俺の方(というより風船?)を見て、忽ち笑顔になった。
「ありがとう、おにいさん!」
男の子は嬉しそうに風船を受け取った。
そんなに喜ぶもんなのかと思ったが、心底幸せそうな男の子を見て俺も嬉しくなった。つい、顔に笑みが溢れていた。
「どういたしまして! もう手放すんじゃねーぞ」
「うん!」
そこへ……
「けんちゃん!」
男の子の母親が迎えに来た。
男の子は母親の腕に抱きついた。
「ママ!」
「もう……すぐどっか行ってしまうんだから」
母親は困った様に笑い、男の子の頭を撫でた。
男の子が母親に連れられて歩いて行き、俺はその背中を見送った。
親子の姿が大分小さくなった所で、俺は身体の向きを変える為に片足を少し後ろに引いた。――――と、
「おにいさん! てんしなんてげんじつにはいないからね!」
男の子が振り返って、俺に叫んだ。
俺の頭からは一気に血の気が引いた。
アイツ! 俺のアホ発言覚えてやがった!
妙に悔しくなり、虚しくなる。
ポツンと突っ立ったままの俺の背中を、アイリーンが優しく叩いた。
「アイリーン……」
じわりと涙が浮かぶが、よくよく考えてみればコイツが元凶だ。重要な事を最初に言わなかったコイツが悪い。でも、怖いから何も言えない。彼女はきっと、天使の顔した悪魔なんだから。