「かわれているの」
似非にもほどがある、丁寧口調! 正しい日本語が分からないまま、地の文章が語り口調な話にあこがれて。
「ほら」
そう言って差し出されたものを、迎え舌にならぬよう、下品にならぬようと考えて、顎を引きながら頭を差し出した時に、ふと名案が浮かびましたので、私はその案を行いました。
端的に言うと、自らの手を使ったのです。何も、手ずから食べさせていただかなくても、私にも二本の自由な腕が、手がありましたから。
そうして、私の生暖かな指先がその人のひやりとした指に触れたあたり、差し出されたものの半分ほどおそらく口内が覆った時、声が降ってきました。
「待て」
待って、ではありません。吃音なぞ聴こえませんでした。確かに待て、とそう言ったのです。自分は、先ほど、夕暮れ時の暖かな陽気のように微笑むその人を見たはずでしたが、今聴こえたその声は、朝日の凛とした空気のような冷たさを持っていました。刺々しい冷たさではなく、正義を孕んだような音色でした。
私はその人に差し出されたものを口内半ばまで覆い、歯を引っ掛けて、手で、押し込む前でしたので、その声に従うには、少し迷いましたが、不可能ではありませんでした。
声に従い、それから身を引き、上目遣いになりながらもその人を伺うと、真一文字に口を結んだ無表情がありました。
「なにかーー」
自分がそう問うよりも早く、私に差し出されていたはずのものはその人の口内へと消えてゆきました。ごくりと、嚥下の音まで余すことなく聴いた両の耳は、すぐにザァと自身の血の気の引く音で使い物にならなくなり、代わりに今まで足りなかった頭が、勢いよく回り始めました。
この人は、おそらく自分の手ずから食べさせて見たかったのだ。自分は、愚かにもその意図に気づかず、その意思を、意向を蹴ってしまった。反故にしてしまった。無碍にしてしまった。
迎合できなかった。
そう結論づけるのに時間はかかりませんでした。問題は、そのあと。どう、機嫌を取り戻していただくかです。
これはどうかしら、戯けて笑って「食べさせてくれないの」と言うのはーーあぁ、それでは先ほどの自分の手を、触れた指先をなんと弁明するのだ。せめて触れなければ頭が覆い隠した手元は見えなかっただろうに。ではこれは、あれは、それはーー
しかし、何を考えてもがらんどうは所詮がらんどうで、時間がすぎてしまえば、もう、駄目でした。ろくな案が、浮かばないのです。
私が百面相のごとく表情を変え、赤へ青へまた赤、青と顔色を変え、冷や汗をかきかき、まごついてるのを見かねたのか、その人が名を呼びました。
自分は知らずのうちに下げていた顔を上げ、いつしか視界から消えていたその人の顔を写しました。
情けないような、愛しむような、呆れるような笑みを浮かべたその人は「ごめんね」と微笑みました。そんなに食べたいとは思わなかったと、続けました。
「まだあるから、いらっしゃい」
手招いた手とは反対の手には、新しく先ほどの口内へと消えていったはずのものが見えました。自分は、許させれたのだと、今度こそはと、思い、やはり迎え舌はせぬよう頭を差し出して、今度こそ、両の手を使うことなくそれを口内へと落とし入れました。
「美味しい?」
そう咀嚼する自分に首をかしいで問うその人は最初と同じような暖かな笑みを浮かべておりました。声をあげて同意を示したいところでしたが、飲み込めておらず、それをチラつかせるのは品がないと思いましたので、代わりに一度顎を引き、頷きました。
「そう、良かった」
そういって、一層微笑みを深めたその人の瞳は、先ほど申し上げましたような朝日の、正義を孕んだ、きらりと光るようなものではなく、いえ、一度もそのようなことは申していないのですが(私はその人の目を、一度もしゃんと見ていなかった)音色に比例しましたような瞳ではなく、どろりと夕闇を掻き回したような濁り具合をしていました。
「 」
そうして、私の名ではなく、その人の家族の、下の者の名を呼び微笑むのです。
「私の手から以外で、食べてはいけません」