3 雨の館 死を招く幻影
ほかの花瓶が残っているのを思い出して一階へ降り、白い紫陽花の花瓶を手に取った。有賀のいる6号室へ持っていくつもりだったけれど、あんな話をしたあと、また有賀を訪ねる気力はなかった。
二階に上がり、冬樹のいる5号室のドアの前に立ち、ノックをする。
「さっきの紫陽花を持ってきました。少しいいですか」
目の前のドアが小さく開く。冬樹は、廊下に立つ人間が一人であることを確認すると、大きくドアを開いた。部屋を見渡し、机と丸テーブルのどちらに置こうかと考えながら部屋へ入ろうとすると、階段の方角から、重く低い女の声が聞こえた。
「小岩千鶴さん」
「はい」
固まったように動きを止める。振り返るまでもなく、結城緋呂子だった。花瓶を持ったまま緋呂子の方に向き直る。冬樹もすぐ状況を理解したのか、ドアを開けたまま、自分と緋呂子をじっと見ている。
緋呂子はゆっくりと階段を上りきり、千鶴の二メートルほど手前で足を止めた。友好的な表情では決してない。
「曽我冬樹さんに、色目を使うような、はしたない真似はおやめなさい」
「はい?」
言われている意味がわからない。思わず呼吸を止めて、続く言葉を待った。
「何を考えているのか知りませんが、ひとりで冬樹さんの部屋に入るなんて、冬樹さんの不名誉に繋がります。まだ正式に決まっていないとはいえ、百合子の夫になるかたです」
緋呂子の低い声が、頭の中で反響する。冗談でないのなら、おそろしく不愉快なことを言われているような気がする。彼女にとって、小学生だろうが幼稚園児だろうが、男子は男子なんだろう。
腹立たしさはあるけれど、そこに向き合えば、引きずられるように、ほかの感情も流れ出てしまう。事情はともあれ、結城緋呂子は舟見の客だ。
「……すみません、そういうつもりはありませんでした。申し訳ありませんでした」
花瓶を持ったまま、穏やかに頭を下げる。こんなとき、有賀の言動を真似ることが役に立つ。ほかの誰かになりきることで、自分の感情も遠ざけられるような気がした。
心の奥にある元栓のようなものを、ずっと固く閉じている。そうしていなければ、何もできなかっただろう。不思議そうに自分を見ている冬樹に、これ以上、おかしなところを見せたくない。
緋呂子はふんと鼻を鳴らして奥へと歩き、冬樹だけに会釈をしてから8号室に入った。
「どうして、用事があるって説明しなかったんですか」
呟くように尋ねる冬樹に、手にしている花瓶を見せながら答えた。
「説明しても、理解してもらえないような気がしたからです。……それより、部屋に入って花瓶を置いてもいいですか」
了承を得て5号室に入ると、ドアを閉めた冬樹が、小さく息をつくのが聞こえた。
あらためて部屋を見回す。机の上は何もなくて、リコーダーが差してあるランドセルは、国語辞典と一緒にベッドの上に置かれている。しばらくは使わなそうだと判断して、机の上に白い紫陽花の花瓶を置いた。
ほんのり緑がかった白と、うっすら青みがかった白の、二種類の紫陽花がかすかに揺れる。やわらかな花弁に目をやりながら冬樹が尋ねた。
「あの人に、あんなふうに言われて、平気なんですか」
「……平気ではないですけど、しかたありません。それに、ずっと続くことでもないですから」
そう言って小さく笑った。心の底から装っていれば、少しは耐えられる。
「……ずっと続かないって思っていたから、平気だったんでしょうか」
白い花を見つめたまま、冬樹は怯えるような表情で言った。その口ぶりに、別の人間の話をしている気配がある。なぜか、それが生きている人間ではないように思えた。
思い当たるのは、五年前に亡くなっている、冬樹の母親だった。長男の冬樹が生まれるまで、結城家はなにかと難癖をつけて追い出そうとしていたという。
「冬樹君、お母さんのこと、覚えているんですか」
「覚えていません。でも、事情みたいなのは、姉や周りの人から聞いてました」
冬樹の表情は変わらない。覚えていなくても、思い浮かべているのは母親のようだった。
今回の事故のあと、冬樹は泣かなかったという。彼も、耐えているのだろうか。終わりの見えないなかで、今を飲み込むように。
「そういえば、霜竹の人たちは、お互いのことに詳しいんでしたね」
「母がぼくを産んだ理由は、『長男を産まなくてはならなかった』からだそうです。それが母の役目で、責任だったそうです。ぼくを産むだけ産んで、死んだと教えられています」
「……そんなことを、周りの人が」
思わず言葉を失う。そんな話を冬樹に、大人が言い聞かせていたことに驚いた。それも小学生の冬樹が、そらんじることができるほどに。
有賀の話が頭をよぎる。仮に、冬樹が事故を起こしたなら、結婚がどうのというより、すべてを終わらせたかったという動機のほうが、あるような気がした。
頭に浮かぶ考えを追い出そうと、軽く頭を振った。有賀と話したせいで、物騒な思考が残っていたらしい。それを見ていた冬樹が、ぽつりと言った。
「ぼくは、周りの人を消してしまうかもしれないから、近くにいないほうがいいですよ」
「えっ」
「事故は、ぼくのせいかもしれないです」
そう言って冬樹が目を逸らす。その声は真剣だった。
「どういうことですか」
「ぼくが考えたから……ぼくが考えると、近くにいる人は死んでしまうんです」
「冬樹君、大丈夫ですよ。そんなことありません」
少しだけ安心する。有賀の言うような話かと、一瞬身構えてしまった。それでも冬樹は真面目な声で続ける。
「ぼくのお母さんも、ぼくが考えたから」
「何を考えたんですか」
そっと尋ねると、冬樹は白い紫陽花のそばに立ったまま、うつむいてしばらく黙った。冬樹を椅子に座らせ、その正面に自分も座る。
冬樹は、言ってはいけないことを口にするように、ちらりと目を上げて口を開いた。
「いなくても平気だ、って思ったんです。前に、姉が言ってました。ぼくのおばあさんや周りの人に言われて、しかたなくぼくを産んだって。お母さんのことは覚えてないけど、ないがしろにされてるなら、お母さんなんていらないって思ったんです。そしたら」
死んじゃったんです、と冬樹が声をひそめた。時折現れる、小学生らしくない言葉が、なんだかいびつで、痛々しく感じた。
「それ、冬樹君のせいですか」
「たぶんそうです。こんな人たちいらないのにって思ったら、今回も事故が起きたから」
「どうして、いらないって思ったんですか」
「姉は、嫌なことばかりを言う人でした。おばあさんは、ぼくや父には優しかったけど、お母さんや姉には冷たい人でした。父はあまり話さない人だったけど、『若い人と結婚するかもしれない』とおばあさんから聞いて、気持ち悪かった」
遠くを見るような目をしながら、冬樹がさらさらと語る。覚えていないと言いながらも、冷遇されていた母親のことを覚えている。いらないと思ったはずの母親を『お母さん』と呼んでいる。
「……若い人って、それが」
「結城百合子さんです。『父が無理ならぼくでいい』って、おばあさんが話していました」
「冬樹君のお祖母さんが、そんな話を冬樹君にしたんですか」
当然のように肯く冬樹に、ぞっとしながらも納得する。結城緋呂子の言動に、それほど冬樹が動じていないのは、慣れているからなのかもしれない。
「それに、周りの人たちに聞かれました。父と結城百合子さんの結婚はいつなのかって」
「どうしてその人が知ってるんですか」
「その人が特別なんじゃなくて、みんなそうです。外出すれば、行き先をみんな知ってるし、仏壇を買い換えれば、関係ない人が意見しにきます。遠くの学校に通えば、よそものみたいに言われます」
冬樹が忌々しげに目を伏せる。まるで疲れた大人のようだった。
「でも、冬樹君がいらないと思っただけで、みんながいなくなるなら、霜竹にはもう誰もいないんじゃないですか」
「ここに来たことで、少なくともぼくの周りからは、みんないなくなりました。だから、気を遣わなくてもいいです。ぼくのそばにいると、嫌な目に遭うことも多いみたいだし、無理にいてくれなくてもいいです。ぼくはあまり、悲しくないですから」
そう言って冬樹は顔を上げた。最後の言葉に驚いて、その目を見る。怯えていたような色は消え失せて、大人びた瞳が自分を見つめていた。