3 雨の館 有賀の疑念
みんなと食事をすることは拒まなかったが、昼食時の冬樹は、誰とも話をしなかった。奥から舟見、緋呂子、百合子、小野坂と時計回りに円卓を囲み、舟見の正面に有賀、隣に冬樹、千鶴、葉山と座ったので、緋呂子は不満があるようだったが、それでも昼食はつつがなく終了した。
後片付けを終えると、厨房にバケツを運び、葉山と手分けしていくつもの花瓶に紫陽花を生けていく。柑橘の花の枝は、小野坂がそのまま数本を抜き取り、上機嫌で部屋に戻っていった。本当に気に入っているらしい。
一階のホールや食堂に置く大きな花瓶を葉山に任せ、個室用の花瓶を二階へ置きにいく。まずは赤紫色の紫陽花を生けたガラスの花瓶を持つと、二階東端の部屋に向かった。
ポケットから鍵を出し、今は使っていない2号室を開ける。二階は、正面側である東から南にかけて、シングルの客室が2号室から7号室まで並んでいる。2号室の向かいには舟見巴の部屋である1号室があり、大階段の吹き抜けを越えた西端に、結城家の滞在する8号室がある。
2号室に入る。姉の千可子がいたなごりはなく、以前、舟見がおみやげにくれた琥珀が、ドレッサーの隅に、忘れられたように置かれている。
その横に花瓶を置き、鏡に映った花の角度を直す。少しずつ色が違う紫陽花のなかで、可憐な赤紫の花を、この部屋に置こうと思った。
さらに思い立って、ドアを開けたまま、窓を開けて空気を通す。そのまま外を眺めていると、ふと背後のドアに有賀が立っているのに気付いた。
「有賀さん」
「すみません、驚かせてしまいましたか」
姉の言っていた『お月さまみたいな人』は、明るいブラウンのスーツに、クリーム色のネクタイを締めていた。穏やかな色が似合う人で、細めの体型がやわらかく見える。
それでも、今の有賀には隠しきれない刺々しさがあった。それがどうにもならないのも、わかっている。
「曽我家は石を持参しなかったことになっているらしいですが、彼から聞いていますか」
有賀は部屋に入るなり、いきなり本題に入った。彼、というのは冬樹のことだ。
「いえ、そういう話をするような状況ではないですから」
「では、千可子さんとの話も?」
責めるような有賀の目に、申し訳ない気持ちで肯く。今まで、冬樹のためだけではなく、自分のためにもこの話を避けていた。姉の事故に向き合って考えることは、自分にとって痛く、苦しい。
それでも有賀は、悲しげな目を平然と向けて、今、自分にこの話をしようとしている。試されているような気がして、感情を奥に押しやった。この人が耐えているなら、自分も耐えられるはずだ。そう言い聞かせて表情を消し、心の奥をかたく閉じて口を開いた。
もう少しだけ、耐えないと。
「……曽我家の石と、姉のことと、関係があるんですか」
事故の直後、千可子が冬樹に駆け寄り、必死に話しかけていたというのは聞いている。舟見によると、冬樹は当時体調が悪く、そのことを覚えていないらしい。
気にならないわけでは決してないけれど、今の冬樹に、目の前で家族が死んだ光景を語らせたくない。
「不自然な事故ですからね。僕は、不自然に助かった彼が気になっています」
「冬樹君に、事故の原因があると思っているんですか」
とがめるような口調にならないように、純粋な質問として尋ねる。有賀は、なにもない場所を見つめながら淡々と言った。
「蜂が出たのは、彼が車を降りたあとです。千可子さんは、意図的に起きた事故であると気付いたのかもしれません。それに彼は、何か、隠しています」
「だとしても、どんな理由で」
「彼の家庭環境ならば、どんな理由があっても不思議ではありません。今回の話し合いのセッティングにしても、『結納の石』とやらがなかったとは思えません。政一氏には、結城百合子さんとの結婚の意思は、なかったと思います」
「それは私もそう思いますが、もう誰にもわからないことです」
石の売却を前提にした話し合い。舟見もそう思っていたらしい。けれど、結城緋呂子の発言を聞いていると、それさえも疑問に思える。強引なだけなのかもしれないけれど。
「葬儀の際に、巴さんと詩さん、小野坂さんも一緒に探したそうですが、石は見つかっていません。結城緋呂子さんの『冬樹君は結城家との結婚に積極的だ』という発言に根拠があるのなら、縁談を断るために持参した石を、彼が隠している可能性もあります」
「仮にそうだとして、冬樹君が両家の関係をコントロールするために起こした行動だったとしても、結納の石を隠すだけでは、曽我家の意向が覆ることはないですよね」
高価な宝石が紛失すれば、騒ぎにはなるだろうが、結城家に慰謝料を払えば済む話だ。結城家はもともと、この話が纏まらなければ石を売却するつもりだったのだから。
「はい、なので事故が起きたことそのものに、彼が関わっている可能性を考えています。彼には、家族に対する殺意があったという可能性です」
「……それなら、他の人にも可能性はありませんか。あまり考えたくはないですが、他の誰かが、宝石を手に入れるために」
どうして有賀とこんな話をしているんだろう。そんなことを心のどこかで思いながら、外に聞こえないよう小声で話す。有賀も他人に聞かれることを危惧したのか、後ろのドアを閉めた。
「ですが、仮に大人が高価な石をこんな形で入手したとしても、どうにもなりませんよ。出所が不明な宝石を、いきなり高値で売却することは難しいはずです」
「でも、たとえば有賀さんのような人なら、加工して、別物にすることもできますよね」
残る大人は結城緋呂子と百合子、小野坂なので、小野坂を疑うような言い方になる。
「そんなことをしても石の価値は下がりますし、労力の割に得られるものは少ないですよ。小金のために人を殺すなら、もっと別の方法をとるでしょう」
冷酷な人間のように、有賀がさらりと返した。宝石商が危険を冒す価値はない。
「可能性だけなら、結城家が石と冬樹君の両方を手に入れようとした、というのもあると思います。『婚約か石か』という話なら、どちらかしか手に入りません」
「可能性がないとは言いません。僕には理解が難しい人たちです。ただ、話し合いの結果次第では、石を売却するという話でしたよ」
「緋呂子さんの様子では、あまり、そう思えませんが」
「なんにせよ、大人があんな真似をして宝石を奪う利点はありません。金銭的な損得とは別の意味があるのかもしれませんよ」
あんな真似、という言葉の意味を思う。スズメバチが車内に現れたことによる運転操作ミス。宝石目当ての大人が起こした結果にしては、偶然の要素が大きい。
「でも、そんなことをするでしょうか、冬樹君が」
「ならば、彼は、家族全員を亡くしているのに、なぜ平然としているんでしょう」
有賀の言葉に血の気が引いた。冬樹の話をしているのに、自分の罪が問われているような気がした。姉の千可子を亡くしたのに、泣いていない自分が。
「……百合子さんにも動機は考えられます。十九歳で、相手は四十六歳だったんですよ。相手が冬樹君に代わったとしても六年生です。抵抗がないとは考えにくいですよ」
「結城百合子さんが、曽我家との婚約を嫌がっているように見えますか」
「……見えないかもしれませんが、実は曽我家が婚約に好意的で、それを嫌がった百合子さんが事故を起こしたという場合もありえます。宝石は曽我家が持参していなかったから、車内から見つからなかった」
話を続けるのが辛い。こんな話をしたがる人ではなかったのに、有賀は凍りついたように変わってしまった。悲しげな目で、さらさらと悪意や殺意について話を続ける。
「石はあったはずです」
「はじめから石はなくて、事故も不幸な偶然だったとは、考えないんですか」
「石もないのに宝石商を呼ぶと思いますか? 結城家はともかく、曽我家が婚約に好意的だったなんて、あなたも思っていないはずです。そんな意味のない偶然で、千可子さんは死ななくてはならないんですか」
冷たく、苦しげな声で有賀が言った。本当のことは、もうわからない。今はその考えに寄り添うことでしか、この人の苦痛を分かち合ってあげることができない。
事故が冬樹によるものならば、家族への悪意だけでなく、無関係な千可子を巻き込む意思を持っていたことになる。
有賀は、それを確かめずにはいられないのだろう。なんのために千可子が死んだのか。ただの不幸な事故だったのなら、この人も少しは楽だったのかもしれないのに。
有賀は視線を宙にやり、考えながら言った。
「千可子さんの最後の行動を考えると、彼が事故に関わっていないとは、思えません」
千鶴が黙り込んでいると、有賀はふと目を伏せながら続けた。
「……すみません。千可子さんの最後の行動が、僕はどうしても気になって」
「わかります。でも、もう少し待ってもらえませんか。今は、こういうことを冬樹君には聞けません」
いたわるように言うと、有賀は済まなそうに肩をすくめてドアを開けた。周囲を見回し、それでは、と部屋を出る。
ドアが閉まると、ため息が出た。軽く目元を押さえる。
有賀が、十一も年下の自分を子供扱いせず、考えていることを真剣に話してくれるのは嬉しい。でも、こんな状況では疲れてしまう。それでも、他人に言えないようなことでも隠さず話せる友として期待されているなら、できるだけ失望させたくない。