3 雨の館 紫陽花の庭
急ぎの仕事もなく、多少は仕事絡みの案件ということで、有賀と小野坂も数日のあいだ屋敷に滞在することになった。副店長である小野坂の権限で、出張扱いにするらしい。
屋敷で過ごすことに慣れている有賀は、応接室で宝飾のデザインを練りはじめた。
結城緋呂子と百合子は、なにごともなく部屋に戻っていった。
ホールの掃除を終え、大階段の手すりを乾拭きしていると、花ばさみとバケツを持った葉山が玄関に向かうのが見えた。ホールで煙草を吸っていた小野坂が呼び止める。
「詩さん、何しにいくの」
小野坂は舟見に倣って、葉山詩のことを『ウタさん』と名前で呼んでいた。花ばさみをちゃきちゃきと鳴らしながら葉山が答える。
「お庭の紫陽花を切りに行くんです。皆さんのお部屋に生けようと思って」
「俺が切ってこようか。散歩がてら」
「そんな、雨上がりなんですから、お洋服が濡れますよ。トゲのある木もありますし」
歩み寄ってバケツを持とうとする小野坂に、葉山がたしなめるように言う。小野坂は、ライトグレーのスーツに光沢のある水色のネクタイをしていた。止めているピンは銀色で、眼鏡と腕時計も銀色だった。
「平気だよ。俺も田舎育ちだし、こういうのは嫌いじゃないんだ」
「……やっぱりここ、田舎ですよねー」
深緑色のスカート、腕まくりした白いブラウス、黒いエプロンの葉山が、肩をすくめて笑った。後ろで留めた髪にはスカートと同じ深緑色のリボンが揺れている。
「それなら、みんなで庭に出ようか。朝から晴れているのは久しぶりだし」
突如現れた舟見が、辞書を抱えて迷惑そうな顔をしている冬樹の肩を押しながら言った。
六月に雨が降るのはしかたがないけれど、青空を見るのは久しぶりだった。庭の木々がきらきらと光って、今まで自分がいた世界とは違うものに見える。
それでも、柳川がきのう見ていた白い紫陽花が目に入ると、そんな錯覚も消えていった。胸の奥は重く、痛いまま変わらない。ここは現実の続きだった。
「綺麗な庭ですね。柚子の木もある」
そう言って小野坂が棘のある木を興味深げに眺めた。上着を脱ぎ、ごめん千鶴ちゃん、と渡してくる。預かった上着を腕に掛けると、ポケットのあたりに重みを感じた。煙草を吸うときに使っていた銀色のオイルライターだろう。
敷地は木々に囲まれていて、ところどころに、紫陽花や低めの柑橘が植えられている。整然とした印象はないけれど、今は水色や赤紫色の紫陽花たちが庭を美しく飾っていた。
「レモンもあるよ。ローズガーデンでもよかったんだけど、まめに管理できないからね。食用にしてないから味はわからないけど、花の香りは楽しめるよ」
舟見が棘のある木にそっと触れた。乙女としてはローズガーデンのほうがいいです、と葉山が口を挟む。バラも柑橘もトゲがあるのは一緒だよ、と小野坂は楽しそうにバケツと花ばさみを持って庭の木々のあいだに消えていった。
舟見と葉山は屋敷周辺を点検しはじめて、玄関前には千鶴と冬樹が残った。
「先ほどはすみません。三人で押しかける予定ではなかったんですけど」
先刻、緋呂子たちを連れて部屋へ行ったことを謝る。しかたなさそうに庭を眺めていた冬樹はちらりと視線をよこすと、いえ、と再びどこか遠くを見る。その視線を追いながら千鶴は言葉を続けた。
「私は霜竹に行ったことがないんですが、ここと似てますか」
霜竹にある曽我家は敷地も広く、蔵もあると舟見が言っていた。
冬樹は遠くを見たまま言った。
「もっと田舎です」
「この箱野町も、十分田舎だと思ってました。どんな感じですか」
「……竹林が多いです。田舎って言ったのは、景色がどうっていうより、住んでいる人の違いで、そう思っただけです」
「ひと?」
振り向いて聞き返すと、冬樹は淡々と続けた。
「あそこは、ぼくの知らない人たちがみんな、ぼくを当たり前のように知ってるんです。ぼくは遠い学校に通ってるから、霜竹には友達がいないのに、あの人たちは当然みたいにうちの家の中のこと、ぼくの体質、苦手な食べ物まで知ってます」
「ちょっと、有名人みたいですね」
「でも、ぼくにはあの人たちが話している内容がよくわからないんです、言葉が違って。地名も人の名前も、正式な名称で話す人はいなくて、屋号とか下の名前で呼びあってます」
「冬樹君が使わない、土地の言葉があるんですね」
「お互いのことは、全部筒抜けです。あの家の娘さんが夜中に帰ってきたとか、あそこのお嫁さんは家に鍵をかけたとか。ぼくの姉が服を買ってもらったときも、服の色まですぐ広まりました」
遠くを見ていた冬樹が、抱えている辞書に視線を落とす。霜竹という土地は、居心地のよい場所ではなさそうだった。冬樹の、どこか頑なで大人びた言葉遣いも、土地の言葉を拒んでいるように思えた。
「千鶴ちゃんたち、小野坂さん知りませんか? 花を切るのにどこまで行ったんでしょう」
舟見と話していた葉山が、困った顔で近付いてきた。千鶴が目を凝らして周囲を見渡すと、庭の外れの木陰で、腕時計がきらりと光った。
「たぶん、あっちにいます」
遠くに見える銀色の目印を指差す。小野坂は楽しそうに庭の木々を眺めていた。
葉山が大声で小野坂を呼び、もう十分でーす、と手を振ると、花一杯になったバケツを持って小野坂が戻ってきた。くす玉のようになった紫陽花を見て、舟見が目を丸くする。
「大漁だね」
「柚子やレモンの花も咲いてましたよ。香りがよかったから、枝ごと少し切ってきました。詩さん、一緒に生けてみたら」
小野坂が花ばさみを葉山に返す。バケツを見ると、白い小さな花のついた枝が、紫陽花に混じっていくつか挿してあった。それは細い枝ながらも、柑橘特有の棘がついている。
「私、紫陽花とレモンの枝を合わせて生けられるほど、上級者じゃないですよ」
「そう言わずに。俺はこの香りが気に入ったんだ」
そう言って小花のついた枝に小野坂が触れた。甘く懐かしいような独特の香りがする。この季節の庭に漂う、柑橘類の花の香りだった。
小野坂の隣に立った冬樹も、くんと鼻を鳴らして言った。
「……山椒の木もあるんですね」
「そういや、あったかもしれないな。冬樹君、山椒の匂いは苦手か」
匂うかな、と小野坂が自分の服の匂いを嗅ぐ。冬樹が冷静な声で答えた。
「いえ、山椒は平気です」
「大人だな。辛いのも平気か?」
だいたい平気です、と小さく答えた冬樹がバケツの紫陽花を指で突いた。葉山が手を伸ばすと、俺が運ぶよ、と小野坂がバケツを持って歩き出す。小野坂の上着を持った千鶴も、続いて屋敷の中へ入った。
紫陽花を厨房へ運ぶと、葉山が花瓶の用意をはじめた。
「ええっと、剣山はどこでしたっけ」
「私、持ってきます。たしか、リネン室に片付けた覚えがあります」
預かっていた上着を小野坂に返し、厨房の奥へと向かう。厨房の隣にあるリネン室は、ホール正面の階段真下にあるので、天井が低い。
「屋根裏部屋みたいだな」
いつの間にか入ってきた小野坂が、珍しそうにリネン室を見回した。他の部屋と違って低い天井。装飾のない白い壁、焦げ茶色の柱と床。隅には洗濯機と乾燥機が設置してあり、手前には大きめのアイロン台と、その上には古風な黒いアイロンがある。
棚には畳まれたシーツやタオル、アイロンがけされた衣類などが並び、木製の裁縫箱や救急箱が置いてある。
「EとかBとかって、なんですか」
冬樹も壁際のキーボックスを覗きながら尋ねた。木製の箱には1から8までの部屋番号とアルファベットが記してあり、各部屋の鍵が掛かっている。
もう、と現れた葉山が困ったような声を出した。
「Eはエントランス、Bはバックドアです。玄関と勝手口の鍵ですよ。そんなことより、あんまりお客様が、こういう部屋をじっくり見ちゃだめですよ」
咎めるような目をする葉山に構わず、冬樹が珍しそうにキーボックスの中を見る。
今はほとんどの客室が使用中なので、キーボックスには四本の鍵しか掛かっていない。正面玄関と勝手口の鍵、図書室として使われている7号室、かつては千可子の部屋として使われていた2号室の鍵。
「Mがマスターキーで、Sは詩さんの部屋かな」
小野坂も覗きこみ、MやSの箇所を指差す。葉山が小さめの剣山を手にして睨んだ。
「そろそろ女の子の秘密の小部屋から出てください。特に小野坂さん」
「冬樹君はいいのか」
小野坂を廊下に追い出しながら、葉山が冬樹をちらりと見て笑った。
「小学生までは、女湯オッケーですから」
それを聞いた冬樹が、複雑な顔で小野坂のあとに続いて廊下に出る。あら、と小野坂の腕時計に目をやった葉山が、持っている剣山を棚に置いた。
「思ってたより時間がかかっちゃいました。お花を生けるのは午後にしましょう」
厨房やリネン室は室温が高くなりますから、と葉山が紫陽花の入ったバケツを厨房から再び廊下へ運ぶ。リネン室に面している廊下は大階段の影になっていて、一階の手洗いと葉山の使う部屋があった。
とりあえず私の部屋の前に、とバケツをドアの前にどんと置く葉山に、冬樹が尋ねた。
「どうしてこの部屋がSなんですか」
「Sは使用人のSです」
「……そうなんですか」
「間違ってませんよね、千鶴ちゃん」
ね、と葉山が笑いかける。確認するように視線を向ける冬樹に、肯きながら答えた。
「はい。同じ意味である、サーヴァントのSだったものと思われます。それより、昼食の支度をしないと」
またあとで、と冬樹に手を振り、葉山と千鶴は急いで厨房へ戻っていった。